爪先から愛を、羽ばたいて夢を

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踊ることが好きだった。
短剣を振るうより、机に向かって教本を読むより、自分の心のままに身体を動かし踊ることが好きだった。
『上手だよ、プリムロゼ』
次代当主として厳しく接する父が唯一褒めてくれたこと。
好きになったのも当然だ。笑顔で自分を見つめるその姿から父の愛情を感じられて、なによりも嬉しかったのだから。

01.

腹部に痛みが走ったのは、戦闘を終えた後だった。
「アーフェン、来てくれ」
「おう、怪我でもしたか?」
咄嗟に手で庇って誤魔化したのに、ハンイットとリンデは見逃してはくれない。
「プリムロゼが、」
「平気よ。さっき、薬も貰ったもの」
「まあまあ、そう言うなって……怪我してねえならそれでいいからよ、見せてくれよ」
ついと顔を横に背けるプリムロゼにアーフェンは宥めるように苦笑して、けれど有無を言わさず彼女の手首を取った。近くの岩場に座らされ、手足と腹部を診察される。
見張るようにハンイットが隣に座る。リンデもプリムロゼの膝の上に頭を置いて、わざとらしくゆったり休む。彼らは何も悪くないのに、動けないこのわずかな時間のもどかしさが恨めしさに変わる。ジト目のプリムロゼに気付いてハンイットは小さく笑った。
「なにかあってからでは遅いからな」
「……分かっているわよ」
困ったようなその顔を見ていられなくて、結局、外方を向いた。
残る五人の仲間達は、少し離れた場所で周囲の様子を確認していた。
高山地帯となるハイランドでは風が強く急峻な山が連なる。見晴らしの良い分、敵にも見つかりやすく、どうしても周囲に気を配りながらの移動となる。加えて、道の険しさが更なる警戒を強いた。普段はサンダルを履いているプリムロゼもトレサに言われるまま靴に履き替え、飛んでくる小石や砂を避けるためにローブを羽織る。そのくらいしておかないと、歩くだけで身体に傷を負いそうな道なのだ。戦闘のたびに体力は消耗するし、野営をするには厳しい環境だ。睡眠も、十分に取れているか怪しい。
それでも彼らが道を引き返さないのは理由があり、プリムロゼはそれをよく自覚していた。だからこそ、立ち止まりたくないし、今このときも、立ち止まりたくはなかった。
腹部の傷に塗り薬を塗布して、アーフェンが手際よく包帯で覆う。
「これでどうよ?」
「……ありがと。楽になったわ」礼を言うとニカと笑い返されて気が抜ける。
「ハンイットも、ありがと」
隣に微笑みかけると彼女は、いいんだ、と言って立ち上がった。
風に髪を遊ばせながら五人の後を追う。
黒いローブ、すみれ色の上衣、白の法衣に青のサーコート。その後ろに並んでいたリュックが勢いよく動いて──トレサの顔が見えた。
「プリムロゼさん。大丈夫?」
「ええ」
「無理しないでね」
彼女にすら気遣われるなんて、余程、今の自分は暗い表情をしているのだろう。意識して口角を上げ、微笑んでみせる。
「大丈夫よ」
やっと頬を綻ばせたので、トレサの手を取って仲間達と合流する。風に煽られ、髪が視界の一部を塞ぐ。片手で前髪を払い除け、四組の双眸を見つめ返す。
「待たせたわね。……あれが、そう」
彼らに倣い、橋の向こうに聳え立つ劇場を見上げた。
エバーホルドは、プリムロゼの最後の目的地となる。劇場の町として知られているが、有名になったのはここ数年のことらしい。険しい道のりながら、時折荷車や馬車が通るほどには往来があり、わざわざこの地まで劇を観に足を運ぶ貴族は少なくないとも聞く。
坂を乗り越え、階段を上る。連れ立って町へ向かう貴族たちの後ろ姿に目を眇め、無言のままに町へ足を踏み入れる。
ボルダーフォールが崖の上の町なら、ここは山頂の町だ。土地の凹凸をそのまま利用して築かれた家並みは粗末なもので、どうやってこの地で暮らしているのか謎だが、人が住んでいるので想像の付かないほどの過酷な場所ではないと思いたい。
宿に部屋を取る。少しの間話し合いをして集合時間を決めると、早速、プリムロゼは自由行動を取った。皆、険しい道で疲れていたし、プリムロゼもまだ心に不穏な気配があった。
ノーブルコートで刺されたあのときの、シメオンの見せた表情と言葉が頭から離れない。
どうして、なんて、もう言う気も起きない。あの頃、私にかけてくれた言葉も私のためを思って作ってくれた詩も、全部、このためだったというのだろうか。刺された当時に過ぎった思いはそんなものだが、時間が経つほどにそれは遅効性の毒のようにプリムロゼの思考を侵した。
自分で決めて選んだはずなのに、こんな直ぐそばにいたなんて。ほんの僅かでも、あの頃を思い出して流されたくなった、なんて。
「……馬鹿ね」
足首を軽く揉んで、ふくらはぎを休ませる。もう坂を進む必要もないからと、靴ではなくいつものサンダルに履き替えていた。
(思い出したところで、流されたところで、どうするというの)
伏せた視線を持ち上げる。高山の間を抜ける風は冷ややかで、肌寒さに軽く肩を竦めた。
劇場全体が見渡せる町の高台にて、塀に腰掛け、朱に染まりゆく景色を眺める。
「見事なものだ」
石畳を鳴らして現れたのは学者だ。紅い景色の中、黒いローブは切り取られた影のようにはっきりと浮かび上がる。夕陽を反射してなおその瞳の色は失われず、端正な顔に化粧を施すような陰影を浮かべて、彼は愛想良く傍に立った。
プリムロゼは一瞥だけを返したが、それすらも無意味だった。彼の視線は彼女ではなく、劇場そのものに注がれている。
「劇場ができたと聞いたときは驚いたものだが、なるほど、砦を改装したのだね。どうしてそこまで大掛かりなことを……」
「別になんだっていいわ。あの人のすることなんて」
大袈裟にすら聞こえる台詞に、ため息を返す。
「……キミがそういうのなら」
肩透かしをくらったような顔で、素直に彼は口を閉ざした。
たぶん、こちらを気遣っているのだ。ノーブルコートではこちらの本心を的確に突いてきたくせに、あまりにも頓珍漢な男。
砦を劇場にした理由なんて、考えられることはいくらでもある。『エバーホルド永遠に離さない』なんて名前の町だ。自分すら登場人物に仕立て上げる男が、プリムロゼのために舞台を用意したといい、招いた町がそんな名前なんて──あまりにもあからさまで、溜息すら出てこない。
なにより、シメオンの意図を理解したところでプリムロゼのすることは変わらないし、変えられる気もしない。なら、知らなくたって同じこと。
「敵の本拠地だ。気を引き締めて行こう、プリムロゼくん。この町自体、少々特殊なようだから」
「分かっているわよ」
様子を窺うような間を作って、サイラスはそこから動きはしなかった。こちらの指示を待つように、ただローブをはためかせる。
彼の言うように、この町は少しどころか全くもって不気味な町だ。住人は誰もが物語の主人公のように振る舞う。会話をしているはずなのに、中身がない。同じセリフを何度も聞く。違う相手でも、二度目に会う相手でも。
まるでここが一つの舞台であるかのように、町の住人は決められた役を演じている。
「薄気味悪いもんだな」
こちらの考えを読んだようなタイミングで、盗賊も現れた。
「おや、テリオン。キミも心配して来たのかな」
「盗み甲斐がない」
のんきで的確なサイラスの言葉をひと睨みで往なし、彼はプリムロゼの隣に座る。
ストールの端をリンデに遊ばせていたのか、毛先はすっかり縮れている。ほつれた糸を短剣で切ると、器用に指先で回転させ、太腿の鞘に戻す。その一部始終を見守っていると、不意に視線が合わさった。
灰銀の髪の端を朱に染めて、逆光の中、踊子、とテリオンが呼ぶ。
「油断はするなよ」
「……大丈夫よ」
彼はちゃんとプリムロゼの心情を配慮した言葉を投げてくれる。つい、笑ってしまった。
「不思議ね。旅立つときは一人でもいいなんて思っていたのに、誰かがそばに居るだけでこんなにも心強い」
寄り添い合わない優しさと、放っておいてはくれない程度のお人好し。彼ら二人の心は似ているのに全くその形が違うから、おかしくて、少しだけ、羨ましい。
「期待には応えるわ」
ノースリーチでテリオンがサイラスに返した言葉をそのまま借りた。
「……ふん」
それだけでテリオンには意図が伝わるから、気持ちがいい。
会話を邪魔しないようにしたいのか、手元無沙汰なだけなのか、片手に書物を取り出したサイラスを隣に置いたまま、少しの間、三人で沈黙を共有する。
風は、相変わらず吹いていた。


劇場は空席を探す方が難しいほどの盛況だった。プリムロゼが足を踏み入れたこのときも、後から後から客が入ってくる。
「……すごい人ですね」
「ここに来いって言われたんだろ。どこに隠れていやがんだ……?」
オフィーリアが人の波に驚き、その隣でアーフェンが首を巡らせる。二人の背中を手のひらで押して、端に寄りましょう、と囁いた。
劇場は元砦なだけあって広い。木製の手すりには艶が走り、布張りの座席はすべて上品な青紫に染められている。金細工の化粧が施された壁の装飾と流線を描く燭台は、蝋燭の火を受け滑らかに輝いていた。豪華絢爛。テリオンが舐めるような視線を送り、トレサが品定めをするように足を止めるのも頷けた。飾られている調度品のほとんどが一級品だろう。
中をくまなく見て、プリムロゼは三階の見物席に覚えのあるシルエットを見つけた。シメオンだ。
彼は優雅な微笑みを傾け、口を開く。
「君のための舞台を用意したよ」
客席のさざめくような会話がぴたりと止み、声が響いた。
壇上に目を向けたが、役者は現れない。奇妙だ──
「いい場所だろう? ここにはたまに来るんだ、劇を観にね。それに、今日の演目は僕が書いたものだ」
プリムロゼの予想を後押しするようにシメオンは微笑みを傾け、舞台に一瞥をくれる。
「……親を殺された少女が、復讐をするんだ。フフ、なんとも安っぽい話だが、僕のお気に入りでね。君が気に入ってくれるといいのだけれど」
詩人になったんだ、とノーブルコートで語った彼の姿が過る。プリムロゼのことをいつも思っていたと詠った、あの、柔らかな詩を紡ぐ手で──この腹を刺したあの手で書かれた、劇。
中身がどんなものかなんて、観なくとも想像が付く。
見上げた彼の表情は相変わらずで、だから嫌なのだとプリムロゼは眉間にしわを寄せた。柔らかに微笑み、控えめな優しさで寄り添ってくれたあのひと時を、どうしても忘れられない自分がいた。
「舞台を観に来たわけじゃないわ。──待っていなさい」
声を張って自分を奮い立たせる。そう、観に来たわけじゃない。
プリムロゼは、父の無念を晴らすためにここまで来た。
(……本当に?)
治りかけの傷口を、素手で撫でられるような居心地の悪さを覚えた。思わず、腹部の傷に触れる。
「プリムロゼさん、行こっ!」
その手を取ってくれたのはトレサだった。
意識を彼女に奪われてその場から踏み出す。背中を這う視線を感じながら、おそらく廊下へ出るのだろう扉を目指す。
「しんっじらんない! あんなのは女の敵よ、敵!」
トレサは珍しく険しい顔つきだった。いや、本来なら怒りを覚えるところなのだと、その横顔を見て思う。
ありがとう、怒ってくれて。なんてふと言いそうになって、敢えて口をつぐんだ。彼女はまだ恋も知らないからはっきりそう言えるのだ。
ここまできてもまだ、プリムロゼは年下のトレサに線を引いてしまった。手を握り返して、虚勢を張る。
「ふふ。トレサが男の人だったら、好きになっていたかもしれないわね」
肩を寄せて囁くと、ぱっと頬を赤らめてトレサは目を剥く。
「もうっからかわないで!」
謝罪の言葉を唱えながらも、くすくすと笑ってしまった。少しだけ、気が紛れる。
「待て」進行方向に居たオルベリクが片手を剣に添え、手のひらで制す。「あれはシメオンの部下だろう」
彼が視線で刺したのは劇場の案内人だ。老齢らしく豊かなひげを蓄え、皺のない衣装を纏う彼は客席を眺め、品よく佇んでいる。
「知らないわ。進めば分かるでしょ──」
「私が聞いてこよう」
プリムロゼが言い終わらないうちにサイラスが進み出、ローブの裾を左右に揺らしながら案内人に近付き、お決まりのご挨拶から相手を探り始めた。
情報収集はサイラスとアーフェンの得意分野だ。意図的にそうすることもあれば、望まずして情報を集めて来ることもある彼らだけれど、他の仲間たちとの違いは彼らが手に入れる情報はその真偽が明らかであることだ。他の仲間たちも仕事であれば情報収集は行うが、その出どころや情報の正しさまで確かめることは少ない。間違っていればそれでいいと考えるからであったり、間違った情報だとつゆほども思わなかったりと理由は様々だが、そんな仲間達と比べて彼らははっきりと違った。
アーフェンは薬師であるから偽りのない話を聞き出すことが出来、サイラスは自ら真偽を確かめるべく相手を探る。信ぴょう性を踏まえて情報を提供してくれるという意味では、この二人に適う者はいなかった。
通路の壁際で待つことにする。リンデがあくびをする。
「待たせたね」ほどなく、サイラスは戻った。「開演まであと少しだそうだ。観劇をするなら早く着席するよう言われたよ。劇の最中は静かに、そして、指示を聞いてもらえない場合はいかなる手段をも問わず追い出すという話だった」
「……行くわよ!」
しっかり最後まで聞いたのは、少しでも彼の話に意味を見出そうとしたからだ。
左奥の扉を目指す。ほんの少しの罪悪感からサイラスを振り返ると、隣を歩くテリオンに何事か耳打ちをしていた。聞かされた彼は胡乱げに学者を見、けれどその肩を小突いて先に行かせて、案内人に近寄る。そこで視線を前へ戻した。
別に、プリムロゼに許可を求める必要はない。ないけれど、いい気はしない。
彼らは特に、仲間達の都合も聞かず、勝手に手を組んで行動するから気に食わない。一番大事なところは共有しないくせに、仲間達の征く道を整えるときだけは協調する。そういう、分かる者同士の馴れ合いの空気が彼らにはあって、プリムロゼ達にはないことが前からずっと気になっていた。しかも、それは彼らの旅の目的が果たされてから一層強まっているような気がして、余計に腹立たしい。その上、それを気にしているのはプリムロゼだけというのもまた、気に触る。
扉を開けると、廊下が続いていた。入り組んだ通路を見れば、ここでサイラスたちを置いていくと面倒なことになることはすぐに分かる。
「プリムロゼさん」
あたたかな声でオフィーリアが問う。
「先に様子を見てきましょうか?」
気遣われたのだ。彼らと長い付き合いになる彼女には、きっとああいう行動も許容されるのだろう。
「いいわよ、しなくて。……あの二人には困ったものね」
違う。復讐を果たすためにここまできたのに、シメオンの言葉一つで揺らぎそうになる自分に苛立っているだけだ。あの二人にだって、そこまで強く、非難する気持ちはない。
「どうしたんだ」
「……なんでもないわ」
何も気づいていないだろうハンイットとオルベリクの様子にとうとう毒気を抜かれて、額を押さえる。
アーフェンが気まずそうに学者と盗賊を手振りで呼ぶ。
扉の隙間から鐘の音が聞こえた。
今度こそ、劇が始まる。


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02.

脚本は、過日に父親から聞いた話と似通っていた。シメオンは庭師としてエゼルアート家に仕えていたのだ、話を聞くことも多かったはず。プリムロゼの知らない記憶をなぞるように、劇は主人公となる少女が生まれた時から始まる。
睦まじい夫婦の間に生まれ落ちた、一人娘。舞台の上で彼女は父親に愛され、誕生を祝福される。大きくなるにつれ、当主としての責務を知り、やがて彼女は教育を受ける。当主に必要なことは全て教え込まれる。経営に始まり、殺人や自衛の方法まで、様々。
剣先を向けることも、騙されぬよう立ち回るための知識も全て、少女は身に着けなければならなかった。少女は父の前では毅然に振る舞ったが、陰ではその厳しさとつらさに泣いていた。
そこに、庭師の青年が現れる。優しい言葉をかけて、少女の涙をすくう。
観てはいけないと思うのに、舞台から聞こえる声に耳をそばだてていた。
これまでプリムロゼは自分の過去や心情について多くを語っては来なかったが、それも台無しだ。
こんな形で暴かれるなんて思いもしなかった。恥ずかしいなんて微塵も思わないが、少しずつ自分の中の何かがこぼれ落ちていくような、そんな感覚がある。
「なんなんだ、あの人は!」
最初に怒ったトレサに加え、オフィーリアも、ハンイットまでもが憤りを隠さなくなっていた。プリムロゼが道中、シメオンとの関係を話したからでもあった。
人の過去を勝手に劇に仕立て上げ、大衆の目に晒す。それがどんなに侮辱的なことか、どれだけ傷つけるのか、ひどい、と彼女たちは声を揃えてプリムロゼの心に寄り添う。彼女たちはずっとそうだ。旅の目的を知ってからも、復讐することに肯定も否定も示さず、プリムロゼの心をただただ思い遣ってくれた。近すぎず、遠すぎない距離で支えてくれる。
だから、ここまで来ることができてしまった──と、過ぎった。すぐに、その思考を悔いる。
「おしゃべりもそこまでにしろ。敵だ」
先に様子を見てくれていたテリオンが片手を上げて合図する。
彼の言う通りだ。油断は禁物。いつ、足下を掬われるかわからない。短剣を構え、応戦する。
そのうちに、行き止まりに着いた。
扉は一つ、階段はない。
「上へ向かう階段はないな」
ハンイットとオルベリクがリンデを連れて回ってくれたが、戻ってくるや首を横に振った。
「客席を抜けないといけないってこと?」
「そうなりますね……」
トレサとオフィーリアが顔を見合わせる。そうこうしているうちに、二度目の拍手を聞く。
「──行くわよ」
皆に訊かれる前に、決断を下して扉を開けた。
プリムロゼたちがそばを通り抜けようと、観客は誰一人として気にかけない。眉ひとつひそめることもしない。まるで、こちらが見えていないみたいで、気味が悪い。
案内人の前を抜け、再びロビーに出る。
『君のために詩を書いたんだ。聞いてくれるかい?』
聞き覚えのあるセリフが響く劇場の扉を、アーフェンがそっと閉ざす。
三階へ続く階段を見つけた時、鼓動が嫌でも跳ね上がるのを感じた。
(緊張している?)
人を殺すことに、ではない。復讐を終えることに、だ。
もう既にこの手で二人の命を狩り取った。痛い目に遭ったけれど、そのまま死ぬこともできずにここまできて、そうして、この復讐を終えようとしている。
(そのためにここへ来たのよ。……しっかりして)
己を信じ、貫け──家訓を反芻し、己を奮い立たせて進むプリムロゼの耳に、駆動音が届いた。
トレサが弓を構え、テリオンが短剣を片手に肩を温める。
「さあ、開店よ!」
魔導機や魔導飛器は精霊石を原動力に駆動する。テリオンが盗み、残る仲間達で外装を砕けば精霊石の欠片や塊がいくつも手に入る。これを、トレサは特に喜んでいた。精霊石は売れば高値がつくし、戦闘でも重宝するからだ。
「トレサくん。これで全部だ」
「ありがと、先生。これで、いざというとき使えるわね」
呑気なやりとりに苦笑を誘われたのが数名。プリムロゼは何かを言う元気もなくて、先を急いだ。
この階は出払っているのか、黒曜会の部下と思しき人間はどこにも見当たらない。代わりに、魔導機は容赦なく襲ってきた。
キィ──と耳障りな音を立てて魔導機の心臓部が輝く。術の発動を察知したか、新たな魔導飛器が空中を浮遊してこちらへ照準を定める。サイラスの詠唱はまだ中盤、トレサとテリオンは行動を終えたばかりで方向転換が間に合わず、オルベリク、ハンイットは距離が遠い。アーフェン、オフィーリアが攻撃に気付いて顔色を変えた。
「プリムロゼさん!」
「……闇夜の帳、災いを払え!」
円形に広がる黒紫色の輝き。具現化した闇だとサイラスは言ったが、プリムロゼには端が紫色に輝く光に見える。肩と大腿の外側を、光線が掠めた。他方、プリムロゼの闇魔法をまともに受けた魔導機たちは、火花を放って壊れ落ちる。
「火炎よ、──焼き尽くせ!」
文言を唱え終えたサイラスの足下から炎の波が沸き起こり、魔導飛器を一掃する。瞬時に熱波が生まれ、風が起こった。
「先生が唱えると、どうしてこう火力が強いんだろう……」
「それなあ。あとよお、なんで部屋の中は燃えねえんだろうな」
「やめろ。また講義だなんだと騒ぎ出すぞ」
トレサたちの雑談を余所に、短剣を腰に収める。
長い長い息を吐いて、ふと、碧い光の波に包まれた。オフィーリアが傷を癒してくれたのだ。
大腿の傷が消える。肩の、焼け付くような痛みがなくなる。
「おーい、大丈夫かあ?」
回復範囲にいなかった仲間達の傷をアーフェンが確認する。
なにとはなしに眺めていると、オフィーリアと視線が交わった。微笑みを向けられる。大丈夫ですよ、と言いたげな彼女の姿に──ふと、このままでいいのだろうかと自分に問うた。
皆で乗り込んで、皆の目の前で、初恋の相手を殺す。殺して、それで、……それで、どんな顔をして振り返ればいいのだろう。
「……お願いがあるの」
唇が震えた。
「おう、なんだよ」
すぐに返答してくれる彼の優しさを瞼を伏せて断り、言い直す。
「みんなに。聞いてくれるかしら」
緊張が伝わったのか、皆、顔を上げてプリムロゼを見た。
「ここで半分に別れましょう。アーフェン、オフィーリア、ハンイット、それから、オルベリク。あなたたちは宿へ戻って」
「な、……なにを言ってるんだ、あなたは」
ハンイットが見るからに狼狽した。アーフェンは表情を強張らせる。オルベリクは静かな眼差しをこちらへ向け、オフィーリアも杖を強く握るだけで、続く言葉を待つ。
「私が復讐を終えて帰ってくるのを、そこで待っていてほしいと言ったのよ」
嘘だ。隣に居てほしいと思っている。でも、本当にそうなのか、わからない。
きっと、シメオンは素直に刺されてはくれない。こんな劇を用意できる彼が、どんな考えであの場所で待っているかもわからない。なら、何を言われても動じない二人と、まだ本質を知らないトレサを連れていった方が、自分も少しは冷静でいられる気がする。
「……お願いよ」
どうにか微笑む。嘘だとばれてもいい。それでも虚勢を張っていたい。
ほんの少しの沈黙を挟んで、進み出たのはオフィーリアだった。
「プリムロゼさん」
手を差し伸べられたが、応えるか迷う。
結局、ためらいの後、彼女の方から握られた。革手袋越しの彼女の手は、やっぱりあたたかくて、頼もしい。
「待っています。あなたを思い、祈っています。あの時からずっと、それは変わりません。聖火の加護と祝福を、あなたに。……必ず、帰ってきてくださいね」
凜とした姿が心の闇を払う。ほんの少しだけ、足が軽くなった気がした。
「ありがとう。オフィーリア」
一拍をおいて返答すると、彼女はにこりと微笑みを浮かべた。先んじて背中を向ける。
「サイラスさん、テリオンさん、トレサさん、プリムロゼさんをよろしくお願いします」
三人が頷き、アーフェンは、あーあ、と肩の力を抜く。
「お願いされちまったら、まあ、しゃーねえよなあ」
「……仕方ない。どのみち、敵は多いからな。私達がここで引き受けよう」
「ああ、それがいい」
ハンイットに賛成したオルベリクが、プリムロゼの前へ進み出た。何を言われるのかと構えると、彼は剣を胸の前に真っ直ぐ立てて、少しの間、目を閉じる。
「お前の信念を、忘れるなよ」
そうして、目元を和らげる。
あのとき交わした握手を思い出してしまった。
家訓に胸打たれたと、この剣で助けようと彼は言ってくれたはずだ。この場面で彼を連れて行かないと言うことは、配慮を無下にしたようなものだが、それでも、彼はプリムロゼの背中を押してくれる。
もう一度、紅を引き直そうと思った。
拍手が聞こえる。もう、ここで立ち止まってはいられない。
ハンイット達に背後を任せて、テリオンを先頭に廊下を行く。
「サイラス」
「なんだい?」
「少しだけ、隠れさせてちょうだい」
「いいけれど……何を?」
「野暮用よ」
背を押して殿を替わり、トレサたちに悟られないうちに腰元のポーチから口紅を取り出す。さっと紅を引いて小さな手鏡で確認、何食わぬ顔でサイラスの隣に出た。
「トレサ、テリオン、ここからは体力を温存して行きましょう。それまでは頼んだわよ、サイラス」
魔導機の類は学者の魔法が最も効く。物理的に叩きつけて壊す方法も取れるが、シメオンが部下を引き連れていないとも分からない。
窓の外を見る。空はまだ明るい。階段を上り、造りの似た廊下を見比べて勘で方向を定める。室内に放置された宝箱はテリオンが容赦なく開錠して、トレサは魔導機から欠け落ちたらしい精霊石を拾い集めながら進んだ。
「この先よね?」
「そうだね。階段もなさそうだ」
そうして、トレサとサイラスの会話を背に、扉を開ける。
三階席でも、舞台の上のセリフはここまでよく聞こえた。
プリムロゼの外見に似た女優が、シメオンとは似ても似つかない貴族姿の男性に声をかける。
「シメオン」
「シィ。静かにしてくれないか」
セリフが始まるのも気にせずに声を掛けると、首筋に烏の入れ墨を持つその男は人差し指を真っ直ぐ立てた。
「いいえ。どうして私がここに来たのか、知っているでしょう?」
「やれやれ」
シメオンは椅子に座ったまま、肩越しにこちらを見た。
「当然だろう、君は僕が招待したのだから」
「……なんですって?」
喉を鳴らすように彼はプリムロゼを嘲笑う。
「生きるか死ぬか、ぎりぎりのところを刺したんだ。君は運がいい」
本当、馬鹿みたいだと思う。こんな男に初めての恋を捧げたなんて。
それでも、心の底から憎めないなんて。
鞘に納めた短剣を手に、踏み出す。絨毯を踏みしめるようにして、一歩、もう一歩と進む毎に緊張と不安が鼓動を速めた。

彼を殺せば、すべてが終わる。

「ねえ、プリムロゼ。こんなことをして、父上の無念が報われると本当に思っているのかい?」
おもむろに、シメオンは腰を上げた。背もたれに片手をかけ、ゆっくりと振り返る。
「君は、父親が居なくなった心の穴を埋めたかっただけだろう?」
「……違うわ」
こちらに向き直った彼は、悔しいほどに正装が似合っていた。三つ編みにした月色の髪が所作に従い、背中で揺れる。上品で、見るからに出自が良いのだとわかる立ち姿に、庭師の頃の青さはない。
「君も分かっているんじゃないかな」
彼が小首を傾げると、首筋の烏がよく見えた。
「右腕を殺したとき、どんな気持ちだった?」
すべきことは明らかであるのに、あと三歩、いや四歩進んで、握りしめたこの短剣で刺すだけなのに、彼の言葉を聞いてしまう。
「家訓が刻まれたその短剣でひと思いに刺したとき、君は何を思った? ……胸がすうっと、軽くなったかい?」
今更、どうして彼がそれを問うのだろう。
「……いいえ」
プリムロゼの返答を、彼は満足気に、どこか紅潮した顔で聞き入れた。
「そう、空いた穴は塞がらない。君は父親のいない寂しさを復讐で紛らわせようとしているだけだ」
「いいえ。違う、……違うわ」
渇いていく。
喉を上下させて、息を吐く。
「私が決めたのよ。お父様の無念を晴らすため、お父様を殺した烏に復讐をする、と」
「そうすることで君は、生きていることに実感を得たかったんだろう?」
シメオンは目を細めた。
「……人は誰しも、生きていることを実感するひと時がある」
美しい真白の顔でのたまう。
「僕はね、他人の悲劇をこの目で見るとき、生きていることを実感するんだ。君の悲劇は非常に胸が躍ったよ、プリムロゼ」
「何を──」
後方へ腕を引かれた。テリオンだった。
問うまでもなく、視界の端を霧が漂う。白い靄に周囲を覆われ、警戒を強めた。見れば、シメオンの姿はない。冷気でも湯気でもない、触れても触れた感触のない、霧のようなそれがプリムロゼたち四人の視界を覆う。
トレサは槍を、サイラスが魔導書を片手に開いてプリムロゼたちと背中合わせに立つ。
「これは……煙か?」
「ッ」
なんの準備もなくサイラスが白いそれに触れようとするので、ローブを掴んで制止する。
「プリムロゼくん?」
声が出ない。咄嗟にトレサを見たが、彼女は辺りを警戒していてこちらに気付かず、テリオンもまたストールで口元を隠し、周囲に目を配る。プリムロゼの置かれた状況を理解しているのはサイラスだけだった。彼が何か言わんと、口を開く。
「あのときの君の表情はとても良かった、プリムロゼ。最高だったよ」
息を呑む。白煙の中、シメオンは椅子に座り、こちらを観察するかのように頬杖を付いた。左手指を弾く。勢いよく背後の扉が開かれ、靄が風の流れを受けて広がる。
現れたのは人型の人形だ。片方は踊子、片方は貴族の──父親の格好をしている。
「あの時まで、信じてくれていたんだろう?」
言い返したいのに声が出なくて、もどかしい。
プリムロゼの名を呼ぶサイラスの声を無視して、短剣を手に一直線に走る。けれど行く手を人形に阻まれ、傷つけることはかなわなかった。ようやっとこちらに視線をくれたトレサに声が出ないのだと身振りで示し、薬草を頼む。沈黙のハーブは彼女が持っていたはず。
「っ」
靄の中から鉄扇が現れた。間一髪で頭部は避けたが髪が切れてはらりと落ちる。人形なのに──何も表情のないその顔にぞっとする。
『どうしてあなたがここに?』
『君が帰ってきたと聞いたんだ』
役者の声が響く。壇上の劇は、まだ続いているのだ。
「プリムロゼさん、これ……っ」
ハーブを受け取る。葉をちぎり、舌の上に載せて口に含む。清涼な香りと共に喉につかえていた塊が取れたような感覚があった。
それでも、胸の前で短剣を構えた手はカタカタと震える。
──怖い。
ずっと感じないフリをしていた恐怖が、ここにきてプリムロゼを襲う。
エゼルアート家の復興を目指した方が父は喜んだのかもしれない。黒曜会なんて、わざわざプリムロゼが手を下さなくても、誰かに頼んでどうにかすればよかった。沢山の可能性がある中、プリムロゼは自ら復讐する道を選んだ。父には悪いが、家のことには興味を持てなかった。けれど、父が無惨に殺されたことを何も思わずに居られるほど、無関心にもなれなかった。
『プリムロゼってさ、あったかいんだよね』
『よかった。これで、一人じゃ、な……』
段々と正気の失くなっていくあの娘の手を離して、この剣を握ったのだ。
「目覚めたとき、こうは考えなかったのかい? あの時、あのまま死んでいれば、復讐など果たさなくて済んだのに」
「黙って」
プリムロゼの旅路は、誰かの犠牲の上に成り立っている。
誰も救ってはくれなかったし、誰かに助けられたところで救われなどしなかったからここにいる。
分かっているから歩むしかない。
分かっているから、見ないふりをするしかなかったのだ。
「プリムロゼさん!」
トレサの声が不毛な逡巡を止めた。目の前に広がったのは獣の毛皮だ。丁度、プリムロゼの視線の先で可愛らしい耳が揺れる。狩王女の加護を受けたトレサは斧で敵を威嚇した。
横を見ればテリオンがいる。青いマフラーをなびかせ、黙って周囲を警戒している。
サイラスはプリムロゼの左側に並び立った。
「プリムロゼくん」彼は、裾で口元を押さえながらこちらにハンカチを差し出す。「キミはこの状況をどう切り開く?」
「ッ決まってるじゃない。──戦うわ」
この男も、シメオンも、なぜこうもこちらの心をかき乱すのだろう。じくじくと痛む胸の前で、もう一度短剣を握り直す。
「トレサ! 風をお願い」
「わかったわ!」
大風が吹き荒れ、靄が晴れる。舞台の幕がはためく。
「テリオン」
「なんだ」
「あの人の隙を作って」
返事の代わりに彼は短剣を手に持ち、くるりと一回転させた。
「わかった」
駆け出すまでもない近距離だ。テリオンが強く床を蹴るだけで距離は狭まり、シメオンへ切っ先が振り下ろされる。それを防ごうと左右から現れた人形を、火炎が飲み込んだ。
「支援しよう」
「任せるわ」
聖火神の加護を受け、服を黒から白へと塗り替えると、サイラスはプリムロゼの強がりに黙って微笑んでみせた。
シメオンは指揮棒のように細い扇と杖を持っていた。テリオンの短剣を杖の先端で弾き、往なしながら、攻撃のために迫るプリムロゼを見て愉しげに目を細める。
振りかぶる。短剣の切っ先は扇に弾かれたか、肩を刺した。腹部に肘鉄を食らい、テリオンの手を借りて後退する。トレサが斧で人形の腕を削いだ。音もなく腕の塊が客席の隅に転がり、火花のように突如弾けた雷の影に消える。
焦げ臭い。絨毯が燃えたのだろう。腕を失った人形が長く硬い脚をぶん回し、プリムロゼ達を後退させた。
廊下に出る。ハンイット達のお陰で魔導機が乱入してくることはなかったが、シメオンとの間に人形が立ちはだかる。
「邪魔よ」
プリムロゼは進めた足をそこで止め、ターンの要領でこれを避けた。その間にサイラスが詠唱を省略して大火炎魔法を放つ。
両側から炎に挟み込まれた人形は、関節や衣類の発火をそのままにこちらへ迫る。負傷を覚悟したその時、もう一度、激しい炎がプリムロゼの前に立ちはだかった。炎の波をかき分け、気合の一声を発してテリオンが剣を振る。炎に触れかけたマフラーを掴んで引き寄せ、持ち手を握り直す。
「やあ!」
トレサがもう一体に斧を振るい、今度はその胴体を真っ二つにした。人形の頭が足元に転がる。父と似た髪型のせいか、その様が、『あの時』を彷彿とさせた。
気付いたときには走り出していた。
攻撃を受けても足は止まらない。止めない。いやらしい笑みを浮かべたままのシメオンに真正面から近付き、刺す。
肩口に切っ先を沈め、引いた。血が溢れる。返り血が頬に飛ぶ。
突き飛ばされた。
「……っ見事だ」
ハッとした時には、観客席の入り口に立っていた。先程まで戦っていたのはなんだったのか。
血濡れた短剣をみとめる。
幻ではなかったようだ。それならいい。サイラスなら機序を気にするだろうが、プリムロゼは目的さえ果たされるならなんでもいい。
「これほどととは思わなかった。プリムロゼ」
シメオンは薄い笑みを浮かべ、肩を押さえていた。その手が赤に染まっていく。
「流石、僕の惚れた女だ」
苦悶の表情の中、それでもシメオンは余裕のある声を出す。
動かなくなった片腕をそのままに、動く方の腕を広げて、微笑さえ浮かべてみせた。
「もっと、……もっと見せてくれ! 君の心の闇は、そんなものじゃないだろう?」
どうして立ちはだかる。何の為にそこまでプリムロゼにこだわる? 知りたくない思いでいっぱいなのに、彼の目を見た時、悍ましいものに見つめられたかのように鳥肌が立った。
また、だ。振り切った恐怖がよみがえる。懐かしい思い出に振り回される。
「君は父親の墓参りをしたかい?」
「いいえ」
声が震える。強がる自分を無理矢理に引き剥がされる。
ここまで来たのに。
あと一人なのに。
「後ろめたいんだろう? 父親はこんなことを望んでいないと思うから」
「違うわ。復讐を終えたら報告に行くつもり。……それまでは行かないと決めたの」
「嘘だ」
どうして、最後の一人がこの人なのだろう。
「君は復讐する自分を、父親に見せたくないんだ」
「……やめて」
短剣を水平に振り回し、言葉を遮る。
にこやかに笑んだまま、シメオンは青白い人差し指を顔の前に立てる。
「プリムロゼ。君はもう十分に復讐をしたと思わないか?」
その声からは、残酷なほど愛しか感じなかった。過去は捨て去ってここまで来たはずなのに彼の目に晒されるだけで、かつて彼に恋した無垢な少女が呼び起こされる。
こんなつらいことはもうやめよう、と。やめていいのだと慰めるように彼は言う。
「ここまでの道程は辛かっただろう?」
「もうやめて、」
「寂しかったんだろう?」
「かき乱さないで、……お願い」
彼は口を閉ざすことはなかった。
「踏み止まれば、君はまだやり直せる。君は、本当は、……こんなことをしたくないんだろう?」
「これ以上、私の中に入ってこないで!」
手からこぼれ落ちた短剣が足下で跳ね、絨毯の上を滑る。
ずっと堪えてきた感情が涙となって瞳から溢れた。

彼の言う通りだ。
父が死んだ時、何もできなかったことを悔やんだのではない。唯一の家族を失って、寂しかったのだ。母は早くに亡くなり、プリムロゼには父親以外、頼る家族は誰も居なかった。けれど、父親は当主として、ノーブルコートの領主として忙しくしていた。父と顔を合わせるときは当主としての教育を受けるときだった。弱音を吐くことはできなくても、シメオンがいてくれたから、乗り越えることができた。
それなのに、あんな形で死んでしまうなんて。こんな形で、裏切られるなんて。
寂しくて寂しくてたまらない。どうして誰も側にいてくれないのか。
(寂しかった)
記憶の中で父に語りかける。
(私、寂しかったのよ)
父は答えない。当たり前だ。もう、死んでしまったのだから。

「プリムロゼくん」
──背後に人の気配を感じて、現実に引き戻された。振り返る気にはならなかった。誰かなんて、見なくても分かる。
「落としたよ」
短剣が差し出される。エゼルアート家の短剣。唯一の形見。これで殺すと決めて、肌見離さず持っていた、プリムロゼがプリムロゼ・エゼルアートであるためのお守りが、目の前にある。
持たされると、しっくりと手に馴染んだ。
父に何度も指摘され、陰で泣きながらも訓練をした日々を思う。踊りを見せたら笑顔で褒めてくれた姿を思う。烏に襲われ、殺されると知りつつも毅然に反論した父の横顔を思う。
(お父様……お父様は、私のすることを許してくださる?)
応える声はない。
プリムロゼは父に愛された娘として育ちたかった。たくさん、愛されていたかったのに。
今のプリムロゼを、果たして父は愛してくれるだろうか。
「剣を取るのかい。プリムロゼ」
父はいない。この男に殺された。
プリムロゼが恋し、好み、そんなプリムロゼを愛しているというこの詩人に殺された。
その事実は決して変わらない。
どれだけ希望の光を夢見ても、足元に落ちた影からは逃れられない。
「……碩学王アレファンの加護を」
キン、と結晶を割るような音が重なった。
肩に重みが増す。無から現れた学者のローブが、晒し続けたプリムロゼの肌を覆い隠す。
『キミの旅には、観客が必要だ』
悔しいけれど、いつか、隣に立つ彼がそう言ったのは正しい。
一人だけでもきっとここまで来たけれど、ここには心配してくれる仲間がいて、宿で待ってくれる仲間がいて、いま、隣に立って、見届けようとしてくれる仲間がいる。
きっと、父なら許してくれる。
プリムロゼが顔を上げると、はじめて、シメオンは狼狽し、苦笑した。
「どうしたんだい。らしくない顔だ。君にそんな強い表情は似合わないよ、プリムロゼ」
彼我の違いは明らかだった。
かなしかった。今この時にも改めて愛おしさを覚えてしまって、苦しかった。
「私は、プリムロゼ・エゼルアート」
覚悟が決まる。涙を拭い短剣を構える。
「エゼルアート家の者として、私は己を信じ、貫くわ」
終わらせなければ。
この、苦しくてかなしいだけの劇を。


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03.

旅をしていて、何度心が揺らいだだろう。
復讐をすることにも、人を殺すことにも、一度たりとも揺らいだことはないのに、それだけはいつも、頭の中を揺さぶるような強烈な不安を呼んだ。
最初に揺らいだのは、サイラスの誘いに応じ、オフィーリア、テリオン以外の同行者と顔を合わせたときだった。
『ハンイットだ。よろしく』
『俺はアーフェンってんだ。困ったことがあればいつでも言ってくれよ』
旅の目的が違うのは当たり前で、彼らはそれぞれプリムロゼと違う仕事を生業にしているのだと語った。
狩人と、薬師。誰かの役に立つことをする彼等は、その仕事に恥じない精神性と、純朴さを備える。
オフィーリアとも違う。芯の強さとか、そういった物差しとは全く関係のない場所で生きている。それが、酷く心を揺さぶった。
『良い家訓だ。……俺も、そう在りたいと思った』
次に揺さぶられたのは、烏の右腕を殺す前。オルベリクに家訓について触れられたときだ。
彼はエゼルアート家の家訓に胸打たれたと語った。騎士なんて謳われていた彼のことだ、素直な言葉なのだろうと思ったが、それだけに、不安を引きずった。
アリアナに訊ねられた時、答えは一つだった。
己を信じ、貫くだけ。家訓を信じ、その名に恥じぬよう、雪辱を果たしてみせる。
それだけしか考えられなかった。
信じられるものがなかった。
だから、何度も不安になった。
己を信じ、貫く──この家訓を信じ続けたその先に、何があるのだろうか、と。


シメオンとの戦いはプリムロゼの勝利に終わった。
サイラスの広範囲攻撃と回復魔法を軸に、トレサとテリオンと協力して絶え間なく斬撃を与える。付け足して、プリムロゼ自身も学者の魔法をひっきりなしに浴びせ、劇場を壊す勢いで奮闘した。
観客席で行われた交戦は、廊下にまで範囲を広げて行われ、けれど最後には舞台の見える客席の直ぐそばで終幕を迎えることとなった。
『完成させなければ……この、悲劇を』
余裕を見せていたシメオンも、これまでの戦闘で随分と消耗していた。どこまでも自分の欲に忠実で、プリムロゼの想いを知った上で、短剣を構えるこの手を取った。プツ、と衣服が切れる。皮膚に刺さる。血が溢れて、筋肉の強張り、痛みを堪える吐息に、微かな痙攣。
『愛しているよ、プリムロゼ』
最後の一押しをする前、彼はそう呟いた。
これまでと変わらず、この行為すら彼の愛だと言うように。プリムロゼがどう思っているのかを見透かして、その言葉でこの胸を刺した。
人を殺したことも、復讐を果たしたことも、この人に愛されたことも、一生、消えることはない。
『……帰りましょう』
短剣を引き抜き、客席が汚れるのも構わず、テリオンの真似をして剣の血を払う。
壇上を見やると、劇は終わりを迎えていた。
シメオンと似た役者と踊子が、手を取り合って仲睦まじく抱き合っている。どんな終わり方をしたのかなんて、もう気にしていられなかった。
宿へ戻ると、プリムロゼのお願い通り、ロビーには四人の仲間が待機していた。何も言えないプリムロゼに抱きついてきたのはオフィーリアで、ハンイットが遅れてハグをしてくれた。アーフェンはハーブティーを淹れたと言って奥から茶器を運んで、オルベリクもぎこちなくそれを手伝う。
『それで。キミの旅の目的は、これで果たされたのかな?』
空気を読まずに確認をしてきたのは、やはりサイラスだった。怒りたいような、泣きたいような、複雑な感情のままに言い返したい思いが湧き起こったが、その元気もなくて呟く。
『……ノーブルコートのお父様の元へ行きたいわ。でも、急ぐつもりはないの。ここからフラットランドは遠いし……っ』
疲れていたのだろう。そこで目眩を覚えてハンイットに助けられた。
『休んだほうがいい。この後のことは明日、また話そう。それでいいな?』
サイラスが頷き、話を仕切る。トレサが大丈夫かと手伝いに来たが、平気よ、と断った。
宿は、オフィーリアの配慮で一人部屋を使わせてもらった。皆は大部屋で寝るそうで、何かあればいつでも呼んでほしいと言う彼女の声に頷いて、ベッドに入る。それから、沈むように眠りに落ちた。

それからの道程は、ぼんやりとしか覚えていない。
エバーホルドを発った後、彼等はクリフランドを経由する形でフラットランドへの道を辿った。オフィーリアはいいのだろうかと思ったが、聞けば、コーストランドからフラットランドへ繋ぐ道が塞がれているらしく、どのみち遠回りをするしかないのだという。コブルストンですれ違った行商人から聞いたそうだ。
それで、そう、オアウェルという村に病が蔓延しているとかでアーフェンが突っ走って、それについていった。オアウェルでの出来事で彼は元気を取り戻し、皆がホッと安堵したところで、オフィーリアが話を切り出す。
ウィスパーミルへ向かうには、どのみちノーブルコートで休む必要がある。だからプリムロゼの用事を済ませた後は、ウィスパーミルに向かいたい。
誰もが頷いた。これまでずっと遠回りをしてくれた彼女に、今度こそ報いようと思ったのだろう。プリムロゼはその話を俯いたまま聞いて、頷くだけ頷いた。

久しぶりに見上げる故郷の空は晴れやかだった。
「プリムロゼ」
「……ありがとう」
幌を捲り、オルベリクが手を差し伸べる。今回乗せてもらった荷台には段差がなく、トレサやテリオンは軽やかに跳び降りて行くが、オフィーリアのように服の都合で跳躍が躊躇われる面々は仲間の手を借りて降り立っていた。オフィーリアにはサイラスが手を貸し、その隣でハンイットが軽やかに降り立つ。プリムロゼが降りるとリンデが後ろから飛び越していき、サイラスの足元を通ってハンイットの後に続いた。
「まだ痛むか?」
ぼんやりとノーブルコートへ向かう彼等を見つめていると、商人と談笑していたアーフェンが声を掛けてきた。その背後、サイラスに代わってオルベリクが礼を述べ、商人に別れを告げる。
「いいえ」
「……そっか。ま、ならいいんだけどよ」
気をつかわれている。オアウェルに行くまで落ち込んでいたのが嘘みたいに、アーフェンの表情は明るかった。
それはそうだ。彼は過去に希望があった。恩人から教わった治療薬が功を成した。
プリムロゼには何もない。けど、それを理由に彼を邪険にするのはおかしい。
「腕のいい薬師さんがいるんだもの。痛いところなんてないわ」
「お、おう」
冗談ぽく言ってみたが、自分でも分かるほど元気がない。でも、取り繕う気も起こらなかった。
「ほんとよ。……さ、行きましょ」
男性二人にそう言って、先立って歩く。トレサとオフィーリアが花屋の籠を見に階段を上り、サイラスは宿へ。ハンイットとテリオンはリンデを挟んで歩き、宿の前でこちらを振り返った。
「どうするんだ」
テリオンが真っ直ぐに訊ねるから、ほんの少し、返答を躊躇う。けれど言うべきことは決まっていて、ゆっくりと瞬きをしてから答えた。
「……お父様のお墓参りに。あなた達は休んだらいいわ」
「私はプリムロゼに同行したい」
「ハンイット?」
「だめか?」
遠慮がちな視線を投げられるとは思いもしなくて、そうねえ、と言葉を濁す。けれど、答えは決まっていた。考えるフリを見せたところで彼女に悪いだけ。
「広場までなら。お父様のお墓の前は、遠慮してほしいわ」
「ありがとう。私も、無理に言うつもりはない」
前の自分ならば、どう返しただろう。こちらこそ、と微笑むだけ微笑んで、町中へ向かった。
途中、花屋で供え物の花を買い、中心地へ向かう。この地域にしては珍しく、ノーブルコートは墓地が隣接する。酒場の前を通り過ぎ、墓地へ向かう階段の前へ立つ。
「それじゃあ、ここで」
「ああ。待っている」
「……待たなくていいわよ、もう」
ほんの少しだけ苦笑して、背を向けた。
階段を下りていく。墓地には数名の人が居たけれど、少し待っていれば皆用事を済ませて去っていった。
爽風に草葉がそよぎ、供えた花が揺れる。立ち上がると、花に自分の影が重なった。
「お父様」
墓前に佇み、何度か開閉させた口からやっと声を発する。
「やっと報告に来ることができました。……お父様の無念を、晴らすことができました」
ずっと、ずっと、この日を待ち望んでいたはずだった。
踊子に身をやつし、手掛かりを得るまでの十年、何度も夢見た日。
「家訓を……己を信じ、貫いたのに、」
それなのに、どうしてだろう。氷が溶け出すような長い時間をかけて、視界が歪む。
「でもね、どうしてかしら。……心に空いた穴が、まだ、埋まらないの……!」
やっと言葉にして絞り出したこころが、握りしめた短剣に、ぽたりと落ちた。
旅は、楽しかった。
復讐をすることはつらくて、苦しいものだったけれど、仲間達と共に見知らぬ土地へ赴き、土着の料理に舌鼓を打ち、互いの知らぬ一面を知っていきながら、焚き火を囲んで夜を過ごしたあの時間は、思い起こすだけでほっとする思い出になったのも確かだった。
ずっと、後ろ髪を引かれるような後ろめたさと、一人眠る前に襲い来る唐突な寂しさがプリムロゼの胸を満たしていた。けれど、それを一時でも忘れさせてくれる旅だった。
「……次は、何を信じればいいのかしら」
ひとしきり泣くこともできず、目元を拭う。平原を駆け抜ける爽風が頬を冷やす。
「見つけるしかないのよね」
気付いていた。分かっていた。予感はしていたのだ。その通りだったからと言って、今更、悔やむなんてできない。したくない。
「この脚で、踊り続けなきゃね」
赤い踊子衣装を着て墓前に立ったのは、理由があった。
プリムロゼは踊ることが好きだった。
昔も、今も、この踊りを見てくれる人が変わっても、それだけは変わらなかった。
振り返る。遠い砂漠の地を、そこで眠る、青の踊子や舞台で浴びた喝采を思い出す。寂しさは消えないまま、青々とした木々の向こうに広がる蒼穹を眺めて、プリムロゼ・エゼルアートはささやかな解放感にゆっくりと息をついたのだった。


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04.

大陸を旅する中で聞いた話だが、フラットランドの平原に吹く風はコーストランドから流れてくるものと、フロストランドから流れてくるものの二種類あるそうだ。コーストランドから吹く風は主に湿った空気を運び、フラットランドの土地に水の恵みをもたらす。川が少ない地域ながらもブドウやワインが作られるのは、主にこの風がもたらす雨のおかげだろう。
一方、フロストランドからは乾いた風が吹く。山脈に雲がぶつかり、雪を降らしたあとに吹くため乾燥してしまうのだ。
「そういうわけだから、明日が晴れるかどうかは、南西の空次第っつーわけだ」
「なんとも興味深い話だ。一部の学者も研究していると聞く、この話を彼らに伝えても構わないかね?」
「学者さんが聞くとは思えんが……まあ、好きにするといいさ。お前さんの話も面白かった。サンランドで作られたというこの砂糖、なかなかに便利そうだ」
「よければ件の料理人を紹介しよう。今、紙を……」
「サイラス」
宿のロビーでたまたま出会った老人と話を弾ませていると、テリオンがやってきた。
「先に休む。部屋はどうなった」
「オルベリクに聞いてくれ。二階に上がったようだから……噂をすれば」
サイラスが顔を上げたところ、オルベリクが階上からギシギシと廊下を軋ませ降りてくる。ロビーに立つ二人に気付き、彼は歩調を速める。その背に荷籠のないことから、個室が取れたらしいことか推測された。
「旦那、鍵をくれ」
テリオンが片手で催促する。オルベリクは腰元の布袋を開き、鍵を二つ取り出した。
「片方だけでいい」
「どのみち片方だけだ。もう一部屋は女性用でな」
部屋は二つしか取れなかったのだと剣士は肩を竦めた。部屋にベッドは二つしかないが、毛布を人数分貸してくれるという。
「彼女たちからは不平が出そうだな」
「案外、そうでもないんじゃないか」
サイラスは苦笑したが、テリオンは平然と訂正する。
「なぜ?」
「ここは踊子の故郷なんだろ」
「確かに、……そうだな。どうするつもりなのだろうね」
一番口を開きそうな彼女が宿を利用しないのであれば、残る三人で部屋を使うことになる。寝る場所に頓着しないハンイットとトレサに、多少狭くともそれなりに子綺麗であれば許容するオフィーリアなら、大丈夫だと頷くだろう。無論、これはプリムロゼが元気になっていればの話になるが。
男三人、想像が一致したようで、誰からともなく曖昧な笑みを交わして静かに別れた。
外に出る。オルベリクと並んで大通りへ進むと、道の片隅、柵に腰掛け休むトレサとオフィーリアを見つけた。軽食を手に長閑な風景を楽しんでいたらしい。そうは言いつつもプリムロゼの去った方を気にしてはいたので、彼女を思いやってここにいるのだろう。
宿の部屋鍵を渡し、和やかに小腹を満たす二人と別れ、町中へ進む。
「どこに行くんだ?」この時になってようやく、オルベリクが訊ねた。
「あなたと同じだ。プリムロゼくんの様子を見に」
肩越しに答えると彼は虚を突かれたように口をつぐんで、やおら、苦笑する。
「お前には隠し事などできそうもないな」
妙な冗談を言うものだ。
「そうかな? 皆、同じことを考えている──それだけのことでは」
「よく言う」
肩を揺らしてオルベリクが取り合わないので、サイラスは首を傾げた。
ここへ来た理由がそもそもプリムロゼの希望によるものだ。人の好い仲間達なら、目立つ目立たないに関わらず、彼女を気に掛けるのは明白で、酒場に向かったアーフェンも、宿の近くで待つオフィーリアたちも、宿で休むテリオンも、各々が考えた彼女への配慮だろう。
サイラスはハンイットと同じく彼女のそばにいようかと考えただけで、それにオルベリクが何も言わずついてきたのだから、目的は同じか、似たようなものだとみなすのが妥当だ。
オルベリクの買いかぶりだが、強く否定するほどでもない。大人しく話を変える。
「以前訪れた時と比べて、町の雰囲気が明るいな」
その内に、貴族街に入る。中央広場にて、ハンイットとリンデを見つけた。
柵に寄りかかり、階下を見ていたらしい彼女がこちらを向く。
「ハンイットくん」
「あなた達もプリムロゼを気にかけてきたのか?」
「ああ」オルベリクが応じる。
「どんな様子だい? 彼女は」
ハンイットは鼻筋をすっと動かし、サイラスたちを視線で誘導した。墓地へ続く階段の上、柵からそっと身を乗り出せば、墓地の中央、大きな石碑の前でプリムロゼが立っている。
目元を拭う仕草から、彼女がようやく肩の荷を下ろしたのだと見て取れた。
それ以上は見るなとハンイットに窘められ、大人しく背を向ける。
「少しは気が晴れるといいんだが……」
彼女の吐息にはプリムロゼへの心配が多分に含まれていた。
「こればかりはどうにも、だね。……オルベリク?」
「いや、少し……気になってな」
ひとり、異なる方向へ顔を向けていたので、それに倣って目を向ける。
彼は広場に面した一つの屋敷を目に留めたようだった。
「エゼルアート家だよ。レブロー氏をはじめ、町の人々が管理をしているそうだ」
町人に代わって、疑問に答える。
「そうか。……人望のある人物だったのだな」
彼の納得を皮切りに、しばし沈黙が訪れる。
街には、子供たちの声が響いていた。常緑樹の葉は陽光を受けて煌めき、柔らかな若葉が目に眩しい。青風にそれぞれ髪や服の裾を遊ばれながら、穏やかな沈黙に時の流れを委ねていると、サイラスの青灰色の瞳にとある人物が写った。
橋の下から現れた、暗色髪の青年だ。丁度、プリムロゼが階段を上り始めたところへはち合わせた彼は、彼女を見て足を止める。青年の姿は階段を上るプリムロゼの背に隠れてしまうが、上までやってきた彼女が不意に振り返ることで、再びサイラスの視界に現れた。
遅れて、彼女も青年に気づく。そのまま、少しの間、そこで立ち止まっていた。
二人の間で時が止まったかのような一時の沈黙を、しかし、リンデが無邪気に壊す。
足に擦り寄る雪豹に、プリムロゼが屈む。
柔らかな毛並みを撫でた後、こちらに気づいた。
「あなた達も来たの」
「宿は取れたと伝えにね」
最初からついていくと言っていたハンイットと違い、サイラス達には素気ない。こちらから進んで理由を持ち出すと、ふうん、と大して気にした風もない反応を示した。
「……ま、別にいいわ。ねえ、酒場にでも行かない? 喉が渇いたわ」
彼女の提案に三人は頷いて、先にアーフェンが使っていたテーブルに合流する形で一休みをすることにした。
ここでの料理はパスタやパンなど小麦を使ったものが多く、肉や野菜で和えたものやスープと合わせて食べるものが多い。味付けも素朴で、せいぜい酢漬けの野菜が口休めになる程度。どちらかというと甘みの強いデザートやフルーツに伸びる手が多かった。
オフィーリアやトレサも酒場に集合し、皆で舌鼓を打つ中、ハンイットが口を開く。
「そういえば、プリムロゼ」
「なに、ハンイット」
先割れスプーンでパスタをすくったプリムロゼは、口に含む前の数秒で応える。
「あなたは家には帰らないのか?」
その時、見るからに仲間達の手が止まった。
トレサは口に頬張ったまま喉に詰めかけ、慌てて水を飲む。
目を丸くして、プリムロゼはハンイットを見つめていたものの、
「そうね。帰ってもいいのだけど……家のことは何もしないで来たの。埃まみれじゃないかしら」
「そ、そうか」
言葉を濁して目を伏せるプリムロゼに、ハンイットが困惑のままに口を閉ざす。
周囲の賑やかさが沈黙を埋める。サイラスは黙々と口の中の食べ物を咀嚼しながら、皆の表情が主に苦笑か無表情のいずれかに変わる様を見守っていた。
「そういえば、この辺りはブドウが美味しいんですよね」
「おう、そうみたいだな! さっき、ワインも飲んでけっておっさんに言われたぜ」
ぎこちない微笑みを浮かべてアーフェン、オフィーリアが話題を変えた。
ブドウといえば、とトレサが商売の話に変え、オルベリクが話に合わせてワインを頼み、プリムロゼに注ぐ。
きっと、プリムロゼ自身も分かっているのだろう。皆を眺める顔には感謝と申し訳無さの両方が滲み出ていた。
「昼間顔を合わせた彼は、知り合いかい?」
そういってサイラスが訊ねたのは、昼食を取り終えた後になる。
ハンイットがリンデの食事に付き添い席を離れ、オフィーリアとトレサはアーフェンと共に宿で休むテリオンに食事を運びに行き、オルベリクは酒場の前で再開した闘技大会での戦士と話をしていた。円卓に残されたサイラスとプリムロゼは、特に話すでもなく静かに飲み物を飲んでいて、サイラスが先に沈黙を破った。
「誰のこと?」
「墓地から戻った時、キミが見ていた青年のことだ」
「……よく見ているわね」
呆れたように両肘をつき、頬に手を添え溜息をつく。
ジャンよ、と彼女は呟くように答えた。
「幼馴染なの。レブロー様の息子よ。お父様とレブロー様は親しかったから、私の遊び相手としてよく屋敷に呼ばれていたわ。……意外に覚えているものね」
「親しかったのでは?」
「さあ、どうだったかしら。あの頃のことは、あまり覚えていないから」
プリムロゼはそう言うが、おそらく、ジャンの方はよく覚えていたのだろう。
あのあと、彼はプリムロゼの後ろをすり抜けるように貴族街の奥へ去ってしまったから、彼女が気づいていないのも仕方ない。ただ、彼の様子は何か話したそうにも見え、サイラスの記憶に残っていた。
「……疲れちゃった。私も少し休んでくるわ」
「うん。鍵はオルベリクに」
重ねて問いかける間も無く、プリムロゼはふらりと酒場を出ていく。その横顔からは長年気を張っていた分の疲れが見え、眠気があるようにも見えた。
ハンイットやテリオンの言うように、自宅があるならそこで休めば良いと思うが、幼馴染との思い出も浮かばぬほどであるなら、あの家に帰ったところで彼女の気は休まらないのかもしれない。
窓の外へ視線を投げ、オルベリクが会話を切り上げるのを待つ。それから、プリムロゼの後を追いかけるよう頼んだ。大丈夫だとは思うが、途中で何かあっては事だからだ。
「構わんが、お前はどうするつもりだ」
「彼女の知り合いを見かけたんだ。話を聞いてくるつもりだ」
クラバットの皺を伸ばし、鞄を肩に掛け直す。
「……お前は、」
「なにか?」
何かしらを言いかけた口をそのまま、オルベリクが溜息をついて額を押さえる。首を振った後、片手でサイラスの肩をしっかと掴んだ。
「いいか、今更何のために、とは聞かん。が、迷惑はかけるなよ」
「話を聞くだけだよ」
「お前の場合はそれが……いや、これはテリオンに影響されすぎか……」
ぶつぶつと後半は独り言になったので、聞き流しておく。あまり長居はするなよと、子供に言うような追加の忠告に首を傾げつつ、サイラスは町中に繰り出した。
以前話した町人に挨拶も兼ねて声をかけながらレブロー邸へ向かう。この屋敷の前にも小空間があり、植え込みの前では子供達が集まり楽しげに本を読んでいた。教師テラキアが置いていった教科書だろう。サイラスはどちらかといえば学問をさらに深め、より多くの知識を共有できるよう努めるが、テラキアのような存在も学問の世界には必要だ。いかんせん身体が一つしかないので手が回らない部分もあるが、道行く中で声をかけられたなら丁寧に教えることにしている。それは学問に触れる機会が多ければ多いほど良いと考えるからだ。
和やかにその様子を見ていたサイラスだったが、レブロー邸の軒下に佇む青年をみとめて、本来の目的を思い出した。彼がジャンだ。
「やあ。少し話をしてもいいだろうか」
「……あなたは」
「プリムロゼくんと共に旅をしている。サイラスだ」
それから小一時間、サイラスはジャンと話をした。
彼はレブローと同じく、ここで暮らし、過ごした一人である。プリムロゼがサンシェイドへ旅立った後、町人はどのようにしてエゼルアート家不在を受け入れたのか。不穏な輩が出入りするようになってからのノーブルコートの様子と、今と、変わりはあるか。そういった周囲の話から始め、段々と彼とプリムロゼの関係に話題を誘導していった。
「そういえば、以前ここを訪れた時に、キミの姿は見なかったが……」
「ええ。あの時、僕はエドラスに留学をしていて、最近、戻ってきたんです。その時に父から聞きました、彼女のことを」
腕っぷしに自信のなかった彼は自警団の裏方を手伝いこそしていたが、父に、命を大事にせよと外へ追い出されたのだという。
「クリフランドの方へ?」
「はい。そこに知り合いの学者先生がいるとのことで、父に手紙を届けてほしいと頼まれたんです。それなら近くの町がいいだろうとエドラスに」
「ほう」
ジャンはサイラスが興味を示したのを見て、はじめて、頬を緩めた。
「知っていますか? オデットさんという学者さんなのですが」
「それは、もちろん」
予想外の名前に、大袈裟に反応してしまった。
「よく知っているもなにも、私の先輩だ」
「そうでしたか。いやあ、……世間は狭いものですね」
他人の交友関係を気にしたことのないサイラスでも、このときばかりはそれなりに驚いていた。ジャンは知り合いがいたことでほんの少し警戒を緩めたか、滑らかに語り出す。
「プリムロゼに、……彼女に何があったのか、僕は断片的にしか知りません。けど、それだけでもあまりに酷いもので、なんと言ったものか、言葉に詰まります。なにか手助けできるなら助けたいと思いますし、彼女にはゆっくりしてほしいとも思っています」
幼馴染という間柄が、果たして双方にどれだけの意味を成すかはわからないが、非常に親しみと慈悲に溢れた物言いだった。
「それなら、なぜ、先程会った時は素通りを?」
「あ……気付かれていたんですね、お恥ずかしい」ジャンはぱっとはにかんだ後、頬を掻いた。「いえ、その、まさかあんなに美人になっているとは思いもしなくて」
「気後れしてしまったわけだ」
「うっ……はい」
話しかけたところで、あの口振りではプリムロゼの方も対応に困っただろう。彼のシャイな一面が幸いしたというべきか。
「あの、サイラスさんはどうして僕に話を?」
「彼女を元気付けたくてね」
「そ、そうですか」
真っ直ぐな返答にジャンが面食らったことにも気づかず、さてこれからどうしたものかとサイラスは思案する。
ノーブルコートに滞在する期間は二泊三日と少ない。三日目の朝にはウィスパーミルに向けて旅立つので、実質ゆっくりとできるのは明日一日だけ。彼女がサイラス達と共に旅立つにせよここに残るにせよ、心身共に休息が必要なのは間違いない。
「時に、エゼルアート邸のことで聞きたいことがあるのだが」
「なんでしょう」
「ノーブルコートはしばらく領主不在の下、自治を行ってきたわけだろう。彼女が戻れば、あの邸が使われると見て間違いないかね?」
「それは……そうだと思います」ジャンはサイラスから近くの植え込みへ視線を逸した。「エゼルアート家の方々は……特にジェフリー様は皆から慕われていました。父も、昔はそこらの荒くれ者だったんですが、ジェフリー様から声を掛けられ、今の自警団を立ち上げたと聞いています。皆、なにかしら、エゼルアート家に恩があります」
彼の両親も、ジェフリーの紹介で引き合わされたという。両親が出会わなければ彼が生まれなかったのだから、なるほど彼の言うことも頷けた。
「町の庭師も、自ら進んで庭園の管理をしていると聞いたね」
「エゼルアート家のお屋敷は立派ですし。住む人が居なくなると家は廃れるといいますから、皆、気にかけているんです」
そこで唇を湿らせると、ジャンはサイラスに向き直る。
「彼女が戻ってきてくれるのなら歓迎すると思います。そして、彼女が帰ってこなくても、町の皆はあの邸を大切にすると思います」
それからいくつか言葉を交わし、サイラスはジャンと共にレブロー邸にお邪魔した。レブローとアンネからもそれぞれ今のノーブルコートやエゼルアートの邸について伺い、一通り聞き終えたところで、まだ陽射しの残る外へ出た。
彼らの話を聞くに、エゼルアート邸には住む者こそいないが、部屋はいつでも使える状態にあるようだ。食事は酒場に頼る他に手はないが、それなら夕食の後、プリムロゼが邸で休むことは可能ということになる。
とはいえ、彼女は家のことなど気にしていないのだろう。だからハンイットの問いかけにも曖昧にしか答えられず、宿で休むと言ったのだ。ただそれは、彼女の元気のなさからも分かるように、無意識的な忌避行動か、それ以外の理由があるようにも考えられる。
(父親が殺された邸だ。避けるのも当然に思えるが……一方で、ハンイットくんたちの考えることも分からなくもない)
シメオンの劇が本当にプリムロゼの過去を元に書かれたものならば、彼女は復讐を果たすため踊子になっただけだ。果たされた今、踊子姿で居続ける必要はないはず。彼女がその姿を選び続ける理由があり、それが家に帰らない理由と同じものであると仮定する。ならば、その理由がどうにかなれば、彼女はようやく気を抜くことができる。即ち、元気を取り戻すかもしれない──と考えてもいいだろう。
「ふむ……」
貴族街の中央広場まで戻り、顎に人差し指を添え考える。それからエゼルアート家の庭先まで足を運び、少しの間、人気のない邸の前に立ち尽くした。



庭先でひとり、プリムロゼは佇んでいた。空は暗く、辺りもよく見えない。ただここがエゼルアート家の裏庭で、シメオンによく慰めてもらっていた場所であることは分かっていた。
ガゼボの中は薄暗く、肌寒い。彼の手で育てられた薔薇は美しく咲いて、その葉までもが艶めいていたはずだが、いま、プリムロゼの視界には灰色に枯れた植物しか見当たらない。
当たり前だ。あれから、もう何年経ったと思っているのだろう。
「プリムロゼさん、プリムロゼさん」
──オフィーリアの声に呼ばれて、プリムロゼは目を覚ました。顔を覗き込まれていて、かろうじて飛び起きずに済む。
「すみません。……うなされていたようだったので」
「そう、そうなの」
額に張り付く前髪を払い除けると、汗が手の甲に触れた。
戻ったとき、この部屋には誰も居なかったはずだ。テリオンと四人で話していたところに鍵をお願いして、あとはひとりにしてもらったところまでは覚えている。
様子を見に来たのだと、もう一方のベッドに腰掛けながらオフィーリアは言った。
「トレサ達はどうしたの?」
「テリオンさんと三人で酒場に。軽食と、お酒をつまむそうです」
「呆れた。まだ昼下がりじゃない」
「ふふ、そうですよね」
トレサは健啖家であるから、軽食をつまみにいったと言われても納得はいくが、どちらかというとアーフェンたち二人の酒代を制限するために行ったのだろう。何かと酒が飲みたいと口にするテリオンと、仕事が終われば一杯やりたいと騒ぐアーフェンはなんだかんだで似たところが多く、年も近いから気兼ねもない。仲間でいて、友人でもある。そんな二人を、いつも羨ましいと思っていた。
「最近、眠れていませんよね」
服を整えていると、オフィーリアがおもむろに口を開いた。
すぐには答えないで、アンクレット、ネックレスを身に着けていく。
「そうかしら。寝てるわよ」
「でも、顔色が良いようには見えません」
ピアスを耳朶に付け、口紅を取り出す。さっと顔を整え、鏡で確認するとオフィーリアの言う通り、うっすらと隈ができていた。
「……夢見がよくないだけなのよ。アーフェンには香り袋をもらったけど、あまり効いてないのかしらね」
内緒にしてね、なんて彼女を困らせるようなことを言って、髪を整えた。ヘアバンドをして、背中に髪を流す。
「プリムロゼさん」
「外に出たいわ。ついてきてくれる?」
答えを聞かずに、いや、答えなんて分かりきっていたから、さっさと部屋から出た。鍵は彼女が持っているから、気にせず廊下を抜け、階段を下りていく。
外は既に夕暮れを迎えていた。いつもならこの時間に食事を考え、皆が酒場を目指す頃だが、今日はきっともう少し遅く集まる。酒を飲んでいるというなら、アーフェン達と合流しようか。酒場でなら、いつも通りに振る舞える。
そう考えていたら、大通りからアーフェンを引きずるテリオンと出会した。トレサは二人の荷物を持っていて、プリムロゼに気がつくとテリオンを追い抜いて駆けてくる。階段も一気に飛び越え、元気に着地した。
「プリムロゼさん、休めた?」
「ええ、少しは。それよりどうしたの?」
「飲み過ぎよ」
突然据わった目になって答えるから、思わず上体を引いてしまった。一番年下であるものの、金勘定において彼女に勝てる者は仲間内にいない。テリオンが外方を向いたまま、その横を通り過ぎ、玄関先でオフィーリアとすれ違う。
「テリオンさんも一緒に向かうそうです」
「じゃあ、待っていましょう。あら、トレサ、口に何か付いているわよ」
「えっどこ?」
なんて事のない会話で時間を流していく。
山の向こうに日が隠れ、あたりがすっかり薄暗くなると角灯を取り出しテリオンの鬼火で火を灯した。
四人で話しながら貴族街の酒場を目指す。
酒場の軒下でサイラス、オルベリク、ハンイットとリンデが立ち並んでいたのを見た時、プリムロゼはなんとなく嫌な予感を覚えた。サイラスと目が合ったからだ。
彼らはアーフェンはどうしたのかと訊ね、宿で寝ていると聞くとそれぞれ三様の反応を示した。皆で夜は何を食べようかと話しながら、酒場の扉を開ける。サイラスが扉を片手で押さえ、全員が通るのを待っていた。
「食事を済ませたら、少し時間をもらえるかな?」
そして、七人がテーブルに着くや開口一番そう言った。



宿でいびきをかいていたアーフェンを迎えに行き、荷物を背負うと、八人はエゼルアート邸へ足を踏み入れた。
軒先に角灯が提げられ、町中は仄明るい。窓から楽しげな声があり、見れば家族の姿がそこにあった。
肌寒さを覚えて身震いすると、背後から突然マフラーをかけられる。黙ってテリオンが先に行くので、ありがと、と声だけ投げて、それ以上は何も言わないでおいた。
サイラスが燭台に火を灯す。暖色に照らされた扉は、記憶と何一つ違わない。
「レブロー氏から預かっておいたんだ」
そのまま平然とプリムロゼに鍵を手渡そうとする。
不満を大きなため息に変えて、鍵を挿す。
オルベリクが扉を押し開き、サイラスが片手の一振りで、一斉に燭台に火を灯した。
覚悟したような、籠った空気はない。清涼で、静かな空気が流れていた。
「アンネ氏をはじめ、町の専門職が邸の管理をしていたそうだ。プリムロゼくん、部屋の案内を頼めるだろうか?」
「……仕方ないわね」
シャンデリアが部屋の隅々まで照らす。プリムロゼは記憶を頼りに彼らを客室に案内した。
備品は全て揃えられていた。ベッドも各部屋に四つずつ用意されており、男女で分かれて休むことになる。
「準備がいいわね」
「町の皆が、エゼルアート家のために管理してきたそうだ」
「──そう」
彼が言うのなら、そうなのだろう。ここでは顔見知り以外と話をしてこなかったから、プリムロゼには確かめようがない。
「こっちよ」
サイラス達に背を向けて、ハンイット達を呼ぶ。
「すごい」
室内の調度品はそのままだった。呟くトレサの横を、リンデが爪の音を響かせ通り過ぎる。彼女が寝そべる場所を探してうろつくので、どの位置のベッドを使うか話し合い、寝支度の準備に移った。
家があの後どうなったか知るつもりもないし、町の人と話す気もなかった、なんて言ったら、彼女達はどう思うだろう。
プリムロゼが果たしたかったのは父の無念を晴らすことだけ。それだけを思って生きてきたし、今はまだ、次をどうするかなんて考えられない。だから家に帰る、なんて思いも寄らなかった。
化粧を落とし、髪を梳く。
「プリムロゼ」
「どうしたの、ハンイット」
窓の外をぼんやりと眺めていると、浮かない顔でハンイットが近くに座った。
「いや、……無理を言ってすまなかった」
「どうしてあなたが謝るの。謝る必要があるというなら、サイラスだけよ」
「しかし、私も家で休めばいいと言ってしまったからな」
「いいのよ、あなたのは優しさでしょう。サイラスは違うわ」
「そ、そうか……」
怒気を滲ませ念を押すと、たじろぎながらもハンイットは了承する。
「でも、サイラス先生も、プリムロゼさんのことを思って考えたんじゃないかしら」
「そうですね。気にされていましたし」
「それでもやり方があるでしょう。……まったく、もう」
トレサとオフィーリアが宥められるまま、プリムロゼはため息をついた。
酒場でおもむろにサイラスが提案したのは、今夜はプリムロゼの家に泊めてもらおうという、厚顔無恥も甚だしい内容だった。プリムロゼはともかく、仲間のほとんどがその内容の突飛さに驚き、テリオンなんて話始めから諦めエールを追加する始末だったが、誰も彼の提案を退けることはできなかった。
宿のあの狭い部屋で四人で眠る大変さは、皆、口にせずとも理解していたからだ。
プリムロゼとて無情ではない。仲間が疲れたと言い、自分の家の方がより休めるなら、それがいいと思う。気は進まないが、さらに言えば、言い出したのがサイラスでなければもっと素直に頷いたが、とにかく、渋々、彼の提案を受け入れ、邸に皆を招くことになったのだ。
一方で、一人でこの家に戻らなくて済んだことに安堵する自分がいた。父は殺され、愛した人もこの手で殺した。この身の内側に巣食う虚は今も気を抜くとプリムロゼの涙を誘い、肩の震えを呼ぶが、一人でなければまだ堪えられた。
「色々合ったわねー、今日は」
「今夜はゆっくり寝ていいぞ」
「そうですね。明後日にはまた、遠出になりますし」
三人の話し声を聞きながら、ベッドに横になる。
ネグリジェに腕を通したのが久しぶりで、どことなく落ち着かない。洗濯された、肌触りのいいシーツと枕に包まれて、知らないうちに眠りに落ちていた。
夢は、見なかった。
泥に沈むようにぐっすりと眠っていたようで、目を開けてもしばらく、ここがどこだか思い出せない。見覚えのある天井に、そうだ、家に帰ってきたのだと思い出して起き上がる。
三人の寝息が聞こえる。レースカーテンが磨りガラスからこぼれ落ちる光を散乱させて、部屋全体がうっすらと明るい。
ぼんやりとしていると、窓の向こうを人影が横切った。裏庭の方に向かっている。
(誰かしら)
プリムロゼはベッドを抜けて、静かに部屋を後にした。懐かしい廊下を進んで、父の部屋の前を通り過ぎる。ほんの少しだけ立ち止まり、けれど開ける勇気はなく、何もしないまま裏庭へ続く扉の前までやってきた。
馬鹿みたいに緊張していた。違うのに、そんなことはないはずなのに、まるでそこにプリムロゼの望む人がいるような気がして、そっと押し開ける。
朝日が降り注ぐ庭は、青々と美しく整っていた。
庭には、誰の姿もなかった。ガゼボまで歩いたが、人影はどこにもない。ただただ、いつかのように植物だけが変わらずそこにいて、朝露を葉の上に載せて輝いている。
(……馬鹿みたい)
プリムロゼの愛した人は誰もが居なくなってしまったのに、心のどこかで期待せずにはいられなかった。
空は晴れていた。風は凪いで、朝だからか人の気配が遠い。
草葉を踏む音がした。
「おはよう」
「……早いのね」
「キミの方こそ」
肩の力が抜けた。よりにもよって朝一番に顔を合わせるのが彼なんて、それもこの場所で、なんて。プリムロゼが何をしたというのだろう。
「美しい庭だ。町の庭師が管理をしてきたそうだが、これは見事だな」
寝不足も疲労も感じさせないつるりとした顔でサイラスはガゼボのそばまでやってきた。彼も簡素な格好をしていたが、学者のローブだけは肩に羽織っていた。ネグリジェ姿のプリムロゼに気づくとローブを渡してきたが、断った。もとより、長居するつもりはない。
サイラスはプリムロゼに背を向ける形で、ガゼボの柱に凭れた。彼はとことん人の好意に鈍いくせに、こんなふうに当たり前の配慮を示すからもどかしく思う。本当は全部分かった上で無視をしているんじゃないかと勘ぐりたくなる。
「……どうして、」
「ん?」
「どうして、ここに来ようなんて言い出したの」
「キミに元気を思い出してほしかったからさ」
思わぬ返答に、プリムロゼは素直に目を丸くした。
「楽しかった過去を思い出すと、人は安心を覚えるという。けれど、キミの場合、つらい記憶も同時に呼び起こされるだろうから、一人では難しいだろうと考えた。宿屋の部屋が狭かったのは幸いだったな。不満がなければ、この話は上手くいかなかっただろうから」
ああそうだ。彼はこんな人なのだ。
シメオンが書いた劇も、彼が言ったことも、プリムロゼが彼に言ったことも、全部全部覚えていて、レブローをはじめ町の人から聞いた話も踏まえて考えて。そうしていきなり、それが当たり前のように、一番最善の配慮をする。
「……馬鹿ね。宿屋の部屋なんて、ここと比べたらどこも手狭よ」
「それはそうだ。こんな立派な邸には敵わないだろうね」
隣には並ばずに、ガゼボの内側から顔を出す。後ろからサイラスの横顔を覗き込んだ。
「他にやりようがあったと思わない?」
「文句は甘んじて受けよう。けれど、先程も言ったように、楽しい思い出は人に安心を与える。……ハンイットくんや皆なら、きっと叶えてくれると思ったのだが、」
両手を上げて降参を示し、サイラスが僅かに頭をこちらへ傾ける。
「気分はどうだい?」
「そうね。……悪くないわ」
悔しいけど、と聞こえないように呟いた。
彼はそれに満足したのか、笑みを傾けるだけだった。
鳥の声がする。見れば、庭の隅に小鳥が数羽戯れていた。待ってて、と声をかけ、一度室内へ戻り、時間をかけて戻る。屋根に溜まった朝露が跳ねたらしく、彼の額に落ちた。それをクスクスと笑いながら、両手に包んできた中身を彼の前へ差し出す。
「パンのかけらだ」
「朝早くに、運んでくれたのかしらね」
サイラスの片手にもいくつか載せてやり、小鳥に近寄る。
驚かせないようにそっと、彼らの足元に数粒を放って慣れさせ、手のひらへ誘導する。
「……元気は取り戻せたかい?」
「さあ、どうかしら」
囁くように言い返して、小鳥が飛び立つ姿を見送る。サイラスのところには一羽も来なかったようで、手すりの上に置いておくよう指示した。
「顔色は明るくなったみたいだ」
「もう、いいから」
あまりにジロジロと見られるのも照れてしまうので、手を振って彼の視線を拒む。
くしゃみをすると、今度は無言でローブをかけられたので、大人しく腕を通す。
「……どうしてあんなことを言ったの」
「ん?」
プリムロゼがここにいるからだろうか、彼は決してここから動こうとする気配も様子も見せず、唐突なその問いかけにも補足を願って視線を投げただけだった。
「旅に誘ってくれたとき、言ったじゃない。『観客が必要だ』って」
少しの間を置いて、ああ、と彼は手を打った。
「そのままの通りだ。私は復讐についてとやかく言う立場ではなかったが、キミの出自を知って、なぜ、あの酒場でなければならなかったのかには興味が湧いた。あとは、はじめにも言ったかな。人が死ぬには、誰かがそれを見なくては成り立たない。それに、」
口元を手で隠して、彼は間を作った。あくびを噛み殺したのかもしれない。どこかのんびりとした空気をまとって、サイラスは微笑みかける。
「キミの踊りは、素敵だったから」
それまで何も感じなかった心が、ぎゅっと、何かを思い出すように震えた。
「私は社交の場でも壁際で眺めている方が多くてね。踊りにもあまり興味はなかったのだが、キミが踊ると楽しそうで、ずっと見ていたくなる」
『上手だよ、プリムロゼ』
父に褒められた言葉と笑顔が過ぎって、迂闊にも泣きそうになる。すんと鼻で大きく息を吸って堪えた。
「……そうでしょうね。これでも、サンシェイドいちの踊子だったんだから」
爪先を前へ出して、石畳の上を軽やかに移動する。くるりとターンをして、ローブの裾をつまんでお辞儀をして見せた。ぱちぱちとサイラスが手を鳴らす。
ようやくと言ったふうに彼がガゼボから離れたので、隣に並んだ。
「元気になったようだから、私はもう一度休ませてもらうよ」
「しつこいわね。一体どうしたのよ」
「うん? 友人なら、落ち込んだ相手を慰めるのは当然だろう」
ぴたりとその場で固まっても、彼は平然とあくびをして、じゃあまた、と片手を振って室内へ戻ってしまう。
そういうところが、とか、いつ私が、とか言い返したくなったが、全部、声が模ることはなかった。
全く、どうしてこうも、彼ばかりが欲しい言葉をくれるのだろうか。
堪えきれず、噴き出すように笑って、庭を振り返る。
信念は貫いた。この庭で泣いていただけの自分は、もう過去のものとなる。
何を信じればいいか、どう生きていけばいいか、まだ何もわからない。けど。
「──この脚で、踊り続けなきゃね」
悲しいだけに終わった思い出はすっかり色を変え、ぽっかりと空いた穴は塞がらないまま、喜びが新たに満ちていく。

プリムロゼ・エゼルアートは仲間の待つ部屋を目指して、扉の向こう側へ歩んでいった。


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