月影に舞う

 賑やかな酒場の雰囲気が好きだ。
 酒に空気に酔いしれて、泡沫になる一晩を、誰かと共有しているように思えるから。
 身を投げ出すように唄い騒ぎ、不躾なほど真っ直ぐな視線を虜にして、月に微笑む。
 ひと時。
 一瞬。
 この、最後の空白がたまらない。




 今、この時も。
 プリムロゼが最後のターンを終えると、装飾品が擦れて繊細な音を響かせた。
 一拍の後、ワッと歓声が上がる。
「すげえ!見事だった!」
「いいねえ、姉ちゃん!もう一回頼むぜ!」
「ごめんなさいね。今夜はもうおしまい」
 沸き立つ観客に舞台の上からウィンクを送り、プリムロゼは観客側へ近寄る。
「また来てくれると嬉しいわ」
 もちろん、と唱和する彼らの素直な姿といったら。こみ上げる嬉しさのような感覚が、紅い三日月を深くする。
 ノーブルコートで踊るのは、これで二度目だ。
 旅の目的を──父の復讐を果たしたプリムロゼに残ったものは、踊子として踊ることと、プリムロゼ・エゼルアートとして生きる時間だけだった。
 旅を共にした仲間は、数日休息した後、彼らの目的のためにこの町を離れるという。
 ついてこいよ、と誘われているのに、そして、それがとても嬉しかったのに、胸の奥底で重石のように沈んだままの蟠(わだかま)りがあって、直ぐに返事をすることができなかった。
 無為に時間を費やしている自覚はある。猶予は、もう一日もない。
 今夜が最後の夜だった。
 悩めど、この脚は踊り続けるしかないから、今夜も踊った。これで生きていくしかないと、思っているから。これしかもう、残っていないから。
「学者先生もありがとうよ!綺麗な演奏だったな!」
「それはどうも。なんなら一杯奢っていただけるかな?」
「ハッハ!それはあっちのねえさん方に言うんだな!」
 ピアニストの不在を埋めたサイラスが、賑わいを避けてカウンターへ移動する。
 それを横目に、プリムロゼも舞台を降りた。他愛もない会話と時間に身を委ねて、ほとぼりが冷めるのを待つ。
 丁度ひとりになりたくなったところで、隅のテーブルが空になる。生温いローソファに腰を下ろし、窓側へ身体を傾ける。
 肘掛けに腕を添えると、夜の真ん中で煌々と輝く月が覗いた。
「相席しても?」
 声がするまで、彼が近付いていたことを知らなかった。
 ワイングラスとボトルを手に、プリムロゼと目が合うや彼は片目を瞑る。空気を読まないと言えばいいのか、旅の道中も、プリムロゼが感傷に浸るとき、声を掛けてくるのは決まってサイラスだった。
 だからこそ、ピアノを弾いて、とせがむことができたわけなので、今夜ばかりは彼の振る舞いに感謝しても、厭うことはできない。
「いいわよ」
 どうぞと向かいの席へ手を向ければ、長い脚が優雅に一歩を踏み出して、同じく腰を落ち着けた。黒のローブを背で押して、グラスを並べる。
「開けるわ」
「ありがとう」
 彼の不器用さはこちらの知るところで、酌の慣れ不慣れを考慮すれば、この行動はあまりに自然だ。
 並べられたグラスに葡萄酒を注いで、視線を合わせた。
「乾杯」
 傾けたグラスの中身を、互いに味わう。
 深紅の色合いから味の重みを予測したのに、感じたのは芳醇な香りとやわらかな果実の甘さ、爽やかさだ。
 ぱちぱちと瞬きをして、対面の彼が飲むのを見守る。
「……驚いたわ。美味しい」
「ふふ、取って置きを出してもらったんだ。──御礼をしたくてね」
「お礼? 貴方に何かしてあげた覚えはないけれど」
 くいと一口で半分を呷り、グラスが置かれる。
 コト、と音を立て、そうして、瞬き一つで彼は雰囲気を切り替えた。
「聞いてくれるかい?」
 誘導しておいて、退路を絶たせる。彼のそういう卑怯なところは親しみが持てて嫌いではないのに、底の見えなさがどうしてもプリムロゼに心構えを強いる。
 頬杖を付いて、聞き慣れた音を手首で鳴らした。
「王女様を教えていた先生が言うのだから、相当なお話なのでしょうね?」
「無論、そうだとも」
「いいわ。聞いてあげる」
 プリムロゼがグラスから手を引き、ソファに深く座り直すのを待って、サイラスは口を開いた。
「まずは御礼を、ありがとう。キミの御父上が後見人となってくれたことで、オデット先輩は学者になることができたそうだ。彼女がいなければ、得られなかった知見も多くある」
「──私は関わっていないわよ」
 どう受け取ったものか悩んで、そんな言い方をした。
 事実を言葉にしただけのプリムロゼを、濃藍に翳った瞳は優しく見守る。
 両の目を細めて、緩く、小首を傾けた。
「オデット先輩は、自分のことをあまり話したがらない人でね。キミの御父上との関わりがあったことも、レブロー氏の訪問がなければ知り得なかった事実だ。そして、レブロー氏とはキミのお陰で面識があった」
 利き手とは反対の手でグラスを拾い上げ、葡萄酒を一口、薄い唇が迎える。緩慢な動作に、プリムロゼの心の裏で微かな炎がちら付いた。
 この話の終わりは、どこへ行くのだろう。
 指先が、知らず、握りこまれる。
「私がオデット先輩に教わったことは多いが、彼女が言葉に載せず、声に発さず、示したこともあったと記憶している。そのおかげでいま、私がここでキミと対話しているとするならば、礼を言うのは当然ではないかな?」
「どうせなら、話を短くすることも学んでくれたら良かったわね」
「手厳しい」
 グラス越しの苦笑を睨んで、プリムロゼもグラスに口を付けた。
 静かに、二つのグラスが卓に置かれる。
「──キミの旅路を見届けられて良かった。私はそう思ったよ。キミの御父上が次に繋いだものは、確かにある。キミが繋いだものも勿論、」
「ばか」
 ぱたりと卓に雫が落ちるのと、彼が目蓋を下ろしたのは同時だった。
 嫌な予感は、あった。プリムロゼが旅を続けるのか一人に戻るのかの瀬戸際に、あたたかな言葉をくれる仲間たちの姿が無く、彼一人だけが酒場を訪れたから。
 賑やかな筈なのに、音が遠い。
 俯いたふりをして、溢れたものを指先で拭う。
「サイラス、あなた、ほんとうに……ばかね」
「結構。キミのエバーグリーンの瞳に甘んじて受け入れよう」
 差し出されたハンカチは、いつかアーフェンにも差し出していたもので、綺麗に折り畳まれていた。化粧を落とさぬように眦に当てて、顔を背けるようにして月を見上げる。
「プリムロゼくん」
「……まだ、なにかあるの」
 すん、と鼻を鳴らして拗ねてみせる。どうして他のみんなはこの男を止めなかったのだろう。
 これ以上踏み込もうとするのなら、演技をしてでもこの男を酒場からつまみ出そうと決めて、顔の向きはそのまま、横目に睨んだ。
 差し出された白い手に、片眉を持ち上げる。
「キミがよければ、の話だが。もう少しだけ、旅に付き合ってくれないかな? キミの力を借りたい」
 窄めた口をそのままに、向き直る。ぱん、と乾いた音を立ててその手を払い、立ち上がった。
 それまでのいい顔はどこへやら、鳩みたいな顔をしたど真ん中──整った鼻筋の、先を摘んだ。
「学者先生がおばかさんだから、仕方なくよ」
 後ろへ押しやるように指を離すと、少しだけ顰めた顔を綻ばせ、サイラスは子供みたいに微笑む。
「はは、今夜だけだよ」
「もう、……本当に、口の減らない人ね」
 溢れたのは呆れか苦笑いか、軽やかな声だった。
 心の内に灯された火が、穏やかに熱を持って広がっていく心地がする。
 プリムロゼが酒場の出口へ歩き出すと、靴音が付いてきた。彼の手が扉を開ける。
 一歩先へ、踊り始めのように大きく飛んだ。シャラと遅れて音が追いついて、影が伸びる。
「いいわ、素人さん。その目にしっかりと焼き付けておきなさい」
 月を背に笑う。
 たとえ、この夜が泡沫に消えたとしても。
「プリムロゼ・エゼルアート、参ります」
 この脚で、踊り続けると決めたのだ。

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