Good Night Memory
「寝たの?」
扉が開いていたからそう訊ねたのに、返ってきたのは寝息だけだ。
「不用心ね」
ため息を一つ。プリムロゼは足音を忍ばせて彼の部屋へ滑り込み、扉を閉めた。
寝る支度を済ませていたから、音のなる装飾品は身に付けていない。微かに床板を軋ませた程度で、書物を頭に被り寝入ったサイラスが目を覚まさなかったのも当然だった。
宿の一室。テリオンとアーフェンもそれぞれ個室があてがわれ、室内はとても静かだ。
重いであろう書物を拾い上げると、端正な寝顔が現れる。ローブの留め具は外し、クラバットも緩めていて、サイラスは書物を読みながら着替えようとしていたのだろう。靴も脱ぎ捨てられていた。
近くのサイドテーブルに書物を置き、ベッドを軋ませて腰を落ち着ける。シーツに手のひらを押し付けるようにして上体を傾け、壁に、もう一方の手をついた。
(今、……ここで唇を奪うのは簡単ね)
今日も今日とて町中で女性に声を掛けられていた。相変わらずの対応で後半は呆れられていたが、彼の秀麗な顔立ちと柔らかな物腰、聞いていて心地よい話し方は惹きつけた女性たちをあっという間にその場に絡め取る。
けれど、誰一人として彼に触れることは叶わず、その唇を塞いだこともないだろう。
逡巡。興味はあるけど、それだけの欲求をどうしたものかと人差し指の甲でサイラスの唇を撫でた。
「……ばかばかしいったらないわ」
額を弾いて、呻く学者の顔を見下ろす。
あくびを一つして、端に寄せられたシーツを手に、そのまま身体を横たえた。
翌朝、サイラスは目覚めて直ぐ、身体の上にのしかかる重さに呻いた。
「……何が、」
自分のものではない香りと寝息を感じて目を開く。起き上がるとその反動で彼女の身体がベッドから落ちそうになり、慌てて引き止める。
「プリムロゼくん?」
すうすうと気持ちよく眠る彼女から、返答はない。
いつの間に入ってきたのか。そもそもどうしてサイラスの上で眠っているのか。出会った当初から突飛な──サイラスからしてみればそう見える──行動の目立つ彼女であるので驚きはしないが、互いの性別を考えると、この行動は看過できるものではない。
頭の痛い思いで彼女をシーツに包み、ローブを掴んでベッドから抜け出す。
扉の前で身嗜みを整え、軽く寝癖を取って扉を開ける。
「……おやすみ。良い夢を」
起こすにはあまりに無邪気な寝顔にそう呟いて、部屋を後にした。