それはただの、暇つぶし

盗みの拠点を移そうと決めたのは、気まぐれだった。
強いていえば、貴族の往来が減り──レイヴァース家が閉じこもることを止め、ボルダーフォールに行き交う商人の質と人数が変化した──テリオンが単独で盗みを働くには些か面倒な相手が増えたからともいえる。
赤い果実を片手に考えたことと言えば、明日の食事と、行く先をどちらにするか。
クリフランドは地図で言えばちょうど真ん中にあたり、南下すれば緑豊かなリバーランド、北上すれば自然厳しいウッドランドへ続く。
住人も呑気で、盗みもしやすい南へ行くか、やや険しいが珍しい品の多い北へ行くか。テリオンの基準などせいぜいそんなもので、このときも偶然通りかかった荷馬車にひょいと飛び乗って決めた。
荷馬車のテント部分は丈夫で、人が一人乗ろうと弛むこともない。
(……まずは情報収集、か)
果実の甘酸っぱさを味わいながら、仰向けに寝そべる。
からりと晴れた空の下、馬車の振動に眠気を誘われる。この後、フラットランドまで向かう事になろうとは思いもしないで、テリオンはそのまま、しばしの安息に身を委ねた。


  ---


「……どこだ、ここは」
何度目かもわからぬ問いかけに、答えるものは居ない。フロストランド地方を無事に乗り越えたテリオンを待っていたのは、地平線の果てまで広がる草原と牧場、そして実りに実った小麦畑だ。
クリフランドと違い、空気は瑞々しく、爽やかな風が色素の薄い髪をよく煽る。
菫色の外套を靡かせながら道なりに進むと、道標と共に道が二手に分かれていた。日は既に傾き始め、テリオンの影は道標の影に重なるように伸びている。
ぐうと腹が鳴るが、当然手持ちはない。フロストランドを抜けられただけマシとも言えなくもないが、移動してそうそう行き倒れなど御免である。
周囲を見渡せば、見慣れぬ旗をたなびかせる、豪華な門が遠くに見えた。
国や政治などにさして興味はないテリオンだが、この平原に悠然と佇むことができるほどには、その場所は栄えているのだろうと推測はできた。短剣の位置を確認し、身支度を確認する。
「まずは……酒だな」
その口元が笑っていたことを、通り過ぎた風だけが知っていた。
──テリオンがその町の名をアトラスダムと知るまで、そう長い時間は必要なかった。
町中で料理を振る舞う、気前のいい料理人から盗んだパイは上手く、家を取り合う騒がしい連中のポケットは緩く、酒場の客は財布を卓に載せて飲むほど警戒心が薄い。これ程盗みのしやすい土地もないのではなかろうかなどとテリオンは一人、エールを飲む。無論これの金は、後ろの卓上にある財布から拝借したものだが、哀れなことに持ち主は眠りこけたままだ。
「なあ、あんた……起こさなくていいのか?」
「ああ、ラッセルさん?いいんだよ、彼は常連だからね」
バーテンダーに話しかければ、簡単に相手の情報が手に入った。
「延々と話をする美丈夫よりはマシだろうさ」
ガハハ、と同じく常連らしい客が合いの手を入れ、バーテンダーの口を軽くする。
テリオンがわざわざ演じる必要もなく、甘んじて話の輪に居座った。
「でもねえ、彼は女性を連れてきてくれるから、こちらとしては有難いんだよね」
「……」
そこで眠っている男も、バーテンダーと話し始めた常連も、身なりはそこまで悪くない。と、くれば、話題に上った人物も、それなりに金を持って来るのだろう。
次のターゲットが決まるまで、その人物に当たりでもつけようか。ふとそんなことを考えて、ジョッキの陰で失笑した。
酔っているらしい。
(……まあ、今日はこの辺りにしておくか)
宿へ戻ろうかとカウンターを後にする。
キィと扉を押し開いたところで、往来から黄色い悲鳴が聞こえた。
「お、噂をすれば」
「有り難い。さ、ジョッキを返してくれな」
背後に聞こえたのはそんな会話で、彼らはテリオンがさっと近くの茂みに身を潜めたことにも気付かない。
「オルブライトさん!あの話を聞かせて欲しいわ、魔法で魔物を退治したって」
「薬屋のマーリンさんの話かな。いいよ、魔法学の復習にも丁度いい」
それは、花に蝶が群れると呼ぶに相応しい光景だった。だが、生憎とその花はテリオンと同性で、十人中十人が気に食わないと評することは間違いない。
オルブライトと呼ばれた某は、暗色の髪を上げ、整った顔立ちに青の瞳を備えている。ラッセルと同じく彼もローブを纏っており、しかし、ラッセルと違って金糸の刺繍が僅かに施されていた。
彼らが酒場へ入ると、広場は再び静けさを取り戻す。
「……ふん」
気が変わって、酒場の裏手へ回った。
窓から盗み見たのは蝶──女性達の身なりと宝飾品だ。髪色、纏う衣類の上等さから、この辺りに住む貴族であることは間違いない。
酒場の周囲ですら、並ぶ家々はどれも立派で、さてテリオンの鍵あけが通じるかどうか。
(どう準備を済ますか……)
初めての土地にしては、悪くない。そっと窓際から離れ、暗がりから往来へと足を踏み出した。
そうしてテリオンが宿屋に向かおうとした時だ。
「すまない。少し、いいだろうか?」
それが先程酒場に消えていった声と一致していて、テリオンは意識してゆっくりと、背後を振り返る。
まだ若い青年だった。日に当たっていないのか夜を背景にすると彼は色白く見え、肩にかけたローブの黒さが目立つ。
青い瞳は真っ直ぐにテリオンの翠を捉えた。物怖じしない青さが、いっそ眩しく思われる。
「そう、あなたを呼び止めたんだ」
こちらを遠慮なく見下ろす笑顔を見返して、黙って踵を返す。
「……」
「ま、待ちたまえ」
足早に路地裏へと行き先を変えると、彼は疑いもなく後を追ってきた。貴族の若者らしい過ちに、笑いが溢れる。
「あなたに話が、ッ!」
蝶はどこへ置いてきたのか、今は彼一人。建物の影に彼の姿が隠れたところを狙って、的確に首を狙って壁へ押さえつけた。
「動けば刺す。要件は簡潔に言え」
腕で首から鎖骨を押さえつければ、視界にぎりぎり見えない位置から短剣を突き立てられる。白肌に一筋の赤を垂らしたまま睨み上げ、胸中で舌打ちした。膝を狙えば良かった。
瞳孔を開かせたまま、青年は絶句している。震えすら感じられて、あまりの手応えの無さに興が削がれかけた矢先。
「分かった、……ならば、一言。──学者を押さえるには口を塞いだ方がいい」
「なに──」
腕の力を込めるべきだった。僅かな猶予を与えてしまう。
冷えた空気に、全身の筋肉が強張った。
「氷よ、切裂け!」
足元からせり上がる氷角を跳躍で避け、後退する。後ろを振り返ることなく、そのまま、路地裏の奥へ走る。
今度こそ盛大な舌打ちをして、負傷した左腕を押さえた。


  ---


「……はあ、ふう……驚いた」
震える手のひらを壁に付け、サイラス・オルブライトは詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
冷や汗の伝う首筋を拭って、裾についた赤にぎょっとする。
「危なかったな……」
それでも顔に浮かべたのは苦笑とも言いにくい笑顔で、彼は衣類についた砂埃を払うと、逃げた盗賊を追うこともせず背中を向ける。
無防備とも呼べるその行動は、しかし、ここアトラスダムであるからこそ許された。
「ラッセルの財布に、エール一杯分の不足金。一日にして増えた盗難事件……とくれば、まず怪しむべきは今日訪れたばかりの旅人だと思ったんだが」
彼が肩を竦めても、すれ違う女性は顔を綻ばせるばかり。故に、彼の突飛な行動は、咎められることがなかった。
「白銀に、緑の目。菫色の盗賊……情報はこの程度でいいだろう」
バーテンダーに忠言をすべくして特徴を空で唱え、彼は口角を上げる。思い出しているのは、かつて同じように事件を紐解いた、十年上の先輩だ。
「オデット先輩が居なくなって、二年か」
本を読んでいれば、あっという間に月日は経つ。だからこれは、謂わば口休めのようなものだ。
(さて、と……まずは置いてきてしまった彼女たちから、だね)
ブーイングの嵐が待っているとも思わず、サイラスは笑顔で酒場へと戻っていった。

絵文字を送る