月影に舞う

 明月の夜だった。
「何があるの?」
 呼びかけた先でぴんと尾を立て進むのはリンデだ。
 行き先はどう見ても宿屋で、先に寝入った|相棒《ハンイット》に何かあったのかとプリムロゼは足を早めるが、リンデの足取りは至って平然としていた。
(不思議ね)
 砂を踏みしめる音だけが響く中、期待と不安をないまぜにして冷静さを装う。
 リンデが酒場に顔を見せることは少ない。ハンイットが長居をしないこともあるが、ユキヒョウを見て怯えたり敵意をみせたりする者もいるし、加えて、リンデ自身も自由に動き回りたいときがあるようで、必然的に、街では別行動をすることが多いのだ。
 そうしてやはり宿屋の前で立ち止まったリンデに代わって、プリムロゼは扉を開けた。
「中に入るのね? そう」
 なにがあるの、と呟いた瞬間、唇を閉ざした。
 宿屋のロビーは昏く、窓から差し込む月明かりがただ彼の占領する椅子と円卓を照らしている。どうやら起きているのは彼だけのようだ。廊下の奥から誰かしらの寝息が聞こえる。
 立ち止まったプリムロゼの足元をすり抜け、リンデは彼に近寄った。
 爪音が立つのは仕方ないとして、その迷いのなさがプリムロゼを呼び寄せた理由を自然と想像させる。
「おや、リンデくん。また何か……」
 影で瞬いた瞳はいつも通りのようで、どこか波立っていた。彼は涼やかに笑って、しかし、こちらから目を背ける。
(……どうして、私なのかしら)
 人が泣くときの空気を思い出しながらプリムロゼはリンデを見つめる。美しい獣は少しの間サイラスの手を受け入れていたが、やがてこちらを振り返った。月光に照らされた瞳は何かを伝えるようにじっとプリムロゼの目を見上げ、かと思えば爪音を立てながら廊下の奥へと消えていく。
 そのまま彼女を追えばよかったのに、できなかった。
 好奇心と罪悪感と、どちらが強かっただろう。プリムロゼは彼が話し出す前に椅子の後ろに立った。
「どうしたの」
「どうもしていないよ、……と言っても無駄か。リンデくんと同じ時に戻ったわけではないのだろう?」
「ええ、呼ばれたの。てっきりハンイットが何か困っているのかと思ったのだけど」
 そこで言葉を区切り、乾いた唇を湿らせた。
「違ったみたいね」
「そのようだ。……参ったな」
 このとき、サイラスは椅子を促さず前髪をかきあげた。それをおかしいと思うほどプリムロゼは彼と長く旅をしていて、見逃してやるには言葉を交わし過ぎていた。
「ねえ、どうしたの」
 もう一度問いかける。学者の肩にそっと指を置くと、彼は静かに力を抜く。
「……涙が溢れそうな気がしたんだ」
 淡々と告げられたのは、そんな言葉だった。
「人はストレスを受けると泣くようにできている。多くのことを考えたり無茶な状況に追い込まれたりしたとき、様々なことを考えなくてはならないが、人によって限度が異なる。その限度を超えそうなとき、人は涙を流すらしい」
「あのねえ……悲しいときだって泣くものでしょう?」
 なにより人は、嘘泣きだってやろうと思えばできるのだ。ストレス云々と言われてもプリムロゼには納得がいかない。
 彼の後ろに立っているせいで表情はうかがえない。けれど、声色は変わらず平坦で、のびやかだった。
「悲しいときというのは、その状況に耐えがたいと感じるときだそうだよ。たとえば目の前で人を亡くしたときに泣くのは、その状況を」
「──呆れた」
 続きを言わせぬよう口を挟むと、ようやく、彼はプリムロゼを見上げるように動く。
「それなら、あなたはどうして泣きたくなったと言うのよ」
「それは違うよ。泣きたいわけじゃない、涙が溜まると泣くようにできている。私はどうにも涙を流すことが少なくてね。感情は伴わず、そんな状況になったこともなく、ただ、溢れそうだと感じる」
「……いいわ。そこまで言うなら、付き合いましょう」
 このまま彼の言葉についていけば一晩明かしてしまうことだろう。頭の痛い思いで問答を諦め、プリムロゼは学者の思考を借りることにした。
「涙が流れそうだったのね。リンデがそれに気付いて……私を呼んできた」
「その通りだ。ただ、この通りなかなか出てきそうにない。キミは部屋に戻るといいだろう」
「何を言うの。あの子が私に任せてくれたのよ」
 学者が泣くなんて、想像すらできない。このときプリムロゼを突き動かしたのは好奇心の方が強く、同時に、泣くのをこらえてきた経験が鮮明に思い起こされた。
 最後に泣いたのは、いつのことだっただろう。痛みを堪えて泣いたことは多くあるが、悲しくて泣いたのは本当に昔のことになる。……笑って泣いたことの方を思い出せるのは、間違いなく仲間たちのおかげだろう。
 サイラス──彼も、同じはずだ。彼は泣かない。人並みに感情を表すくせに、こちらの同情を一切許さない。隙があるようで隙がなく、心の距離が遠く感じる。でも、プリムロゼをはじめ仲間たちが彼と共に旅をするのは、それでもサイラスの人間らしい一面が好きだからだ。信頼しているからだ。
「サイラス、目を閉じて。触れるわよ」
「プリムロゼ?」
 拒むような声色ながら、彼は目元を覆うプリムロゼの手を払いのけはしなかった。
「一番心が動かされたことを思い出すの。悲しいことがいいわ、つらいことでも。……むなしいことでもいいの。思い出してごらんなさい」
「……それで、キミは私に何をしようと言うのか」
「あら、涙を零したいんでしょう?」
 わずかな沈黙を挟んだのち、ややあって、彼は、なるほど、と呟いた。リンデに呼ばれてきたとはいえ、プリムロゼ自身がサイラスを一人にしてくれないことを察したのだろう。
「思い出したよ」
 声量を落として、告げる。
「どうしてその場面を思い浮かべたのかを考えて。あなたは得意でしょう。……考えたら、その内容を、感情を、強めるの」
「興味深いな。それで、どうするのかな?」
「……それが正しいのだと思い込んでごらんなさいな」
 プリムロゼが思い起こしたのは、父を殺された翌日のことだ。怖くて、隠れて震えるしかなかった自分の無力さに打ちのめされ、父を失ったことにより周りの大人が混乱する様を見せつけられ、逃げるしかなかった。こんなのは嘘だと部屋に閉じこもり、自分が悲しいのかも悔しいのかも、どうしたいのかもわからず涙が溢れてとまらなかった、最初の日。
 あの時の自分が何を思っていたか、なんて。もう思い出せないから、悲しみ方が分からない。知っているのに、布を挟んだ向こう側の痛みのように感じる。
 サイラスの髪に染み込んだ香料を嗅いで、自分が顔を俯かせていることに気付いた。
「……どうかしら」
「うん」
 表情は何一つ見えないのに、泣いているのだろう、と思った。
 コップに注いだ水が今にも溢れ出しそうな、どこか張り詰めたような空気が湿り気を帯びる。嗚咽もなく、声の震えもない。指先を辿り、頬を滑るひとしずく。
 月光に照らされた自身の手を見つめる。この手を離せば、何が見えるのだろう。彼がどんなふうに泣くのか、知ってしまうのだろうか。
 知りたいと思って彼に付き合ったのに、いざそのときになると知りたくないと思ってしまう。
 彼と話をしたせいだろう、と目の前の黒髪頭を睨む。
 涙の流し方を知らない。それはプリムロゼも似たようなものだ。だから知りたくないと、今は思う。
 どのくらいそうしていただろうか。空気の渇きを覚えたころ、サイラスが片手を挙げた。手を離し、なんなら彼からも距離を取る。そうっと一歩を滑り出し、真正面に立った。
「ありがとう。助かったよ」
「……どういたしまして」
 応えながら肩を竦める。涙の跡もない晴れやかな微笑みが、月影に照らされていた。

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