アンダンテ

オルステラ大陸では各地に十二の守護神を祀る祠がある。
その中でもアレファン、ドーター、ブランド、シルティージ、ドレファンド、エベル、ビフェルガン、エルフリックの八神は、神々の特徴と類似する職業人からの信仰が厚い。
サイラス達はひょんなことから神々からの加護を受け、本職とは別に、その特徴をまとい、術や特技を継承することができた。治療の知識がなくとも、霊薬公の加護を受ければ応急手当や身体異常の治癒が行えるし、雷剣将の加護を受ければ剣や槍を巧みに扱える。
それはサイラスの本職である学者にもいえることで、この日、アレファンの加護を受けたのはテリオンだった。
衣装は本人の気質に合わせて創り上げられるのか、テリオンはどの加護を受けても各職業の定番のスタイルの衣装をまとう。シルティージにおいては多少文句があったようだが、それも変装としては十分通用すると知るや開き直ってしまうので彼の胆力は見上げたものである。
とにかく、サイラスは彼が様々籠を受け、盗賊以外の格好をする姿を好ましく感じていて、更に言えば、アレファンの加護を受けたときの姿を特別好んでいた。
サイラスはまともに袖を通さぬ学者のローブをきっちりと着こなし、普段着と比べて長い裾を厭いながらも本来の彼らしく俊敏に動く。戦闘での立ち回りも、学者の魔法の扱いも変わらず上手いので、見ていて気持ちが良いのだ。
「キミならいい学者になれるよ」
「遠慮する」
サイラスがことあるごとに誘うが、彼の本職は盗賊であるので基本的には断られる。が、それでも構わずサイラスは彼の学者に通じる一面は積極的に取り上げ褒めることにしていた。何をきっかけに学者になってもいいように、という思いもあったが、純粋に、そういったところを褒めることが普通のコミュニケーションだと考えていたからだ。
さて、そんなサイラスには小さな恋が芽生えていた。それは旅路を経て築かれ た信頼関係の上に芽吹いたささやかなもので、自身の感情や他人からの好感に無頓着な彼にはどうあがいても自覚しようのないものでもあった。
だが、生来素直に他人へ好意を示す性格が作用し、知らず知らずのうちに、その好ましい相手にだけ対応が軟化したことで、他人ばかりがそれに気付き、本人だけが知らない状況というものが作られつつあった。


「サイラス先生のお墨付きなんだろう? どうだい、うちの娘。いい年頃でねえ」
「は……?」
「お兄さん、いくつか知らないけどお若いんだろう? ウチの娘はもう二十歳になるんだがねえ、なかなか良い出会いがなくて……」
アトラスダムのとある一角。道具屋にて。
紅茶を飲んでいたテリオンとサイラスは予期せぬ提案に揃って手を止めた。
不当な謂れで家を追い立てられようとした青年を助けた際、道具屋の女主人からお礼にご馳走させてくれと言われ、二人、宿の食堂に出向いていた。
対面に座るのは、頬にそばかすのある栗毛の少女だ。女主人の娘だそうで、彼女は次から次へと軽やかに料理を運んでおり、つまり何が言いたいのかというと、もとから彼女の狙いは娘を嫁にしないかと提案だったのだ。
アトラスダム、もといフラットランドでは、彼女の言う通り男性なら二十歳頃、女性にしても二十歳前後で婚約なり結婚をする者が多い。学者になる女性ならもう少し年齢は高くなるかもしれないが、それでも婚約者が用意され、卒業とともに結婚し家庭に入るものもいることを考えると、女主人の提案は最もなものであった。
問題は、テリオンは学者ではないことだ。
「申し訳ないが、彼は……」
「生憎だが、今は臨時で助手をやってるだけだ」
「おや、そうなの。でもお兄さん、似合ってるよ、そのローブ」
サイラスが事実を伝えようとすると、机の下で脛を突かれた。女主人は適当にあしらうつもりのようで、隣のソファでテリオンはそつなく紅茶を飲む。
カップでの飲み方は、コーデリアとプリムロゼが教えたものだ。おそらくその所作から女主人は勘違いしたのだろう。どこかしらの貴族の学者だと。
「まあ、学者じゃないにしても、お兄さんみたいな美形はそう放っておかないだろうさ」
「……顔の半分を隠すようなやつだぞ。やめておけ」
「ほら、そういうとこ。いい男じゃないか」
見た目に関しての美醜はわからないが、テリオンは前髪で隠しているから誤解されやすいだけで、本人は至って善良な人間である。それは間違いないし、彼は女性に優しいので、きっと結ばれた相手は大事にされるのだろうとはサイラスでも推測できた。
「まあ、その辺りに。お嬢さんも突然決まっては困るだろう」
「そ、そうですよねっ。ほら、お母さん、そういうのはやめてって言ってるでしょう!」
サイラスが娘の方を気づかえば、彼女はぱっと薔薇色に頬を染めて母を叱った。それから、テリオンを見つめる。
「でも、……臨時の助手というなら、普段は何をされているんですか? サイラス先生とは一体どういう関係で」
その様子に、おや、と思った。
もしかすると、彼女はテリオンのことを気にしているのかもしれない。そう勘付いたのである。
「……」
「彼とは旅の中で知り合ってね」
テリオンが無言で訴えるので代わりに答える。そうなんですねと娘は照れ笑いを浮かべ、二人との会話は穏やかに終わった。
女主人から解放された後、サイラスとテリオンはアトラスダムの酒場に赴いた。軽食は女主人の下で摘んだが、話題が話題であったためにそれほど食べられなかったのである。加えて、酒が飲みたいとテリオンが言うのでサイラスもついて行くことにしたのだ。
「先程の話には驚いたが、……実際、キミが私の名を必要とするときが来たら、遠慮なく言ってくれ」
「……本気で言ってるのか?」
「本気も何も。キミが必要とするなら、私にできることはいくらでもするつもりだ。学者になっても、今のままでも」
「学者にはならんと言っているだろ」
「分かっているよ。今のは言葉の綾だ」
チ、と舌打ちをしてテリオンはへそを曲げてしまったらしい。それからは黙ってエールを飲み始めたので、サイラスも蒸留酒を頼んで静かに過ごす。
読書をしていると、不意に肩を叩かれた。
「先に戻る」
「うん。おやすみ」
テリオンが酒場から出ていくのを見届けてから、手につかなかった酒を一息に飲み干す。
「店主、もう一杯頼めるかね」
同じものを二・三頼んで一気に飲むと、はあ、と息をついた。
(……当然のことであるのに、驚いてしまったな)
グラスに口をつけたまま、物思いに耽る。
昼間のことだ。まさかテリオンにそういった縁談が持ちかけられるとは思わなかった。
間違いなくここがアトラスダムであることと、学者のローブを着ていたことが作用した。それは分かっているし、本人もあの通り、学者になんぞならんと言っている。にも関わらず、テリオンに縁談を持ちかけられることを当然と思い、その上でそれをよく思わなかった自分自身に、サイラスは驚いていた。
サイラスとてそういった話は昔からあったし、なんなら今でも時折見合いの話が持ちかけられることもある。家庭はいいだとか、子供の話だとか。だがサイラスにはやることがあり、周りから聞く話も自分とは関係のない話であるので、特別何かを思うこともなかった。
であるから、テリオンにそういった話が出た時、どうして自分が驚き、どちらかといえば嬉しくないと感じたのか、その理由がサイラスには分からなかった。
こういった分野は不得意だ。分からぬものを分からない者が考えたところでなんにもならない。
故にサイラスは、胸にわだかまった不可思議な感情を酒で流すことにした。明日になれば忘れてしまうだろうと、そう考えたのだ。


深酒をしたところで、酔うことはない。
だが、時折、酒やなにかに酔いしれる他人を楽しそうだと思うことはある。その状態に自分が陥ったとき、何をひらめくのか知りたいような、そんな気持ちになるのだ。
宿に帰り、ノックをしてから鍵を開けた。扉に鍵をかける習慣を持つテリオンに従い、中に入って鍵をかける。
ふうとローブを脱ぎ、ベストを椅子にかける。クラバットを緩め、襟元を開いたところでベッドに腰を落ち着けた。
「サイラス」
「起きていたのかい?」
「話がある」
対面のベッドが軋み、テリオンが起き上がったのだとわかった。音もなく近寄り、目の前に立つ。
「明日には発つ」
何かを決めたような声色だった。刹那、胸の内側に氷が通り過ぎるような衝撃があったが、サイラスは鷹揚に頷いた。
「……そうか。分かったよ。朝食は食べてから行くのかい? 見送りは、」
「見送りなんぞ要らん」
「しかし……」
「寝る」
「テリオン。話はまだ終わっていないよ」
「俺は終わった」
呼んでも、彼は振り返ることもなくベッドに潜り込み、サイラスの方に背を向けて眠ってしまった。
(行ってしまうのか)
決めたのなら、そうなのだろう。
そうと決まれば、早く起きなくてはなるまい。ベッドに潜り込む。
そういえば、なぜテリオンはここに残り、手伝ってくれたのか。もしかして用事があり、そのついでで手伝ってくれたのでは。いや、ならばそう言うはずだと悶々と考えているうちに、頭が冴えていく。
寝なくてはならないのに眠れない。隣のベッドを様子見しては、テリオンが居ることを確認してしまう。
目覚めたときにはもういない可能性もある。さっき話を聞いたとき、伝えればよかった。
手伝ってくれて助かった。また頼らせてほしい。気が向いたらで良いので、たまには顔を見せに来てくれ。あるいは、どこにいるか知らせてくれたら、会いに行くから──。
(……会いに行くだろうか。それは分からないな)
友人に、顔を見せるために出かける。そういったことを、サイラスはほとんどしてこなかった。何度も便りを寄越されてはじめて腰を上げることがほとんどで、自分から会いに行こうと思ったこと自体がほとんどない。
生きているのなら手紙のやり取りで事足りるし、元気ならそれで良い。
なにより、テリオンは決まった場所には留まらない旅をしている。レイヴァース家には顔を出すだろうが、定住となるとそれは──
(寝よう。今度こそ……)
一つの可能生を想像して、祝うよりさきに眉間にしわが寄った。
姿勢を変える。が、ますます目が冴えて寝付けない。
(読書でもしていれば、眠くなるだろう)
静かに起き上がり手燭に火を灯す。手近にあった書物を一つ取り、ページを開いた。
──読み終えたが、眠気はまだない。外は暗いままだ。蝋燭を変えて二冊目を手に取り、夜明けを待つ。
テリオンが寝返りをうつたび起きたのかと顔を上げていたが、時間が経てばそれにも慣れる。
窓の外が白くなってきてようやくサイラスは眠気を覚えた。が、テリオンが旅立つのは朝だろうから、ここで寝る訳にはいかない。眠ろうとして本を開いたはずが、これでは本末転倒だ。
目頭を押さえ、足を床に下ろした。宿の主人に頼んで、飲み物を分けてもらおうと思ったのだ。
靴音を隠すことは諦め、ローブを羽織る。扉の鍵を開けようとした矢先、後方で衣擦れの音がした。
声を掛けようとして、手で口を押さえる。起きたかどうか、一目では分からなかったのだ。
扉のそばでじっとテリオンの様子を窺う。彼は頭を掻いたあと隣のベッドを見やり、一つため息をついて顔を上げた。その頬が強張ったようにみえ、驚かせたのだと気付いた。
「……おはよう」
「ああ。……どうした、酷い顔だな」
「そうなんだ。あまり、眠れなくて。なにか飲んでこようかと思ったところだ」
そのまま部屋を出ようと思ったが、ドアノブに手をかけたままサイラスはテリオンに問うことにした。
「もう、行ってしまうかな。それなら、見送ってからにしようと思うのだが……」
「起きたばかりだぞ?」
「ああ、うん。それもそうだ」
寝不足ゆえに思考力が落ちている。すまない、と声を掛けて出ていこうとしたが、腕を掴まれた。
「いい加減、自覚したらどうなんだ?」
口振りから、サイラスのことを言っていることは分かった。が、自覚せよとは、何をだろう。
テリオンに引かれるままに半身を返すと、背中に戸が当たる。彼はサイラスの脇下に手を差し入れ、開けたばかりの鍵を丁寧にかけ直した。
「自覚、とは」
「あんた、俺のことが好きなんだろう」
「…………。……人として尊敬しているし、好きか嫌いかで言えば好きになるが、それは──うわ」
ぐっと腕を引かれたかと思えば、足を引っ掛けられ、ベッドに投げられる。咄嗟に頭を庇ったものの、上にぼすんと置かれたのは枕だった。
甲斐甲斐しく頭を持ち上げ、テリオンが枕を下に敷く。上半身はシャツ一枚の姿であったからか、無臭と思われた彼の肩口から自分とは異なる人間の香りを覚えて、ぎくりとした。
「あの……テリオン?」
額に手のひらが乗る。乱れた前髪をかきあげるようにその手は動き、眠気も相まって薄目になる。その瞬間、頬を吸われた。いや、これは弱く噛まれたと言うべきか。眦にも何かが押し当てられ、抵抗せんと胸板を押し返したが、鳩尾のあたりを押さえつけられると同時に口が塞がれる。
突然のことに目を瞠ったのも束の間、口の中に流し込まれたのは液体だ。押し返すこともままならず、飲み込んだ途端、意識が朦朧とする。
強烈な眠気。眠り薬だ。
好きだと断定したり、眠り薬を飲ませたり、一体、何だというのか。そこまでして見送りを拒みたいのか。サイラスのもっともな反論はしかし、声になることはなかった。力が入らなくなる。
指先がかろうじてテリオンの服の裾に触れたが、軽く握ることしかできなかった。




唇を離すと唾液の糸が引いた。寝息の溢れる唇を親指で拭ってやり、上からシーツを掛けてやる。
「全く……」
これほど鈍いくせに、なぜあれほど分かりやすい反応をするのやら。この調子ではいつまで経っても変わらず、周りからどうにかしてやれとせっつかれるだけだと強引な手段に出たが、それでも彼には通用しないらしい。
テリオンの方はいつでも振る準備ができているというのに。
彼が現状を自覚しないまま過ごし、後戻りできなくなるのは哀れだと──はじめは居心地の悪さと面倒臭さと、その現状を見過ごせないがために決めたことだが、果たして自分はいつまで彼の面倒を見てやるつもりなのだろう。
さっさと旅に出て、忘れた頃にまた顔を合わせてやればいいと思うのに、段々とそれ自体が面倒になってきている。
「……いい加減にしろ」
穏やかな、どちらかといえば整った寝顔を睨み、ベッドの端に腰掛け、ため息をついた。

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