手始めに恋人から
「普通の人生なんて諦めている」
そう盗賊が自嘲したので学者は首を傾げた。
アトラスダムの酒場にて。カウンターの中央に二人並んで座り、学者が薦める酒を盗賊が吟味していた最中のことだ。
共に仕事に明け暮れ、酒の肴に互いの近況を語り合ったところで仕事以外の話題になるはずもなく。盗賊は依頼を受けて盗み出した宝石について、学者は新たに執筆した論文の概要についてそれぞれ語ったばかりだ。
「普通という言葉は便利だね、聞く者によって想定する状態が異なる点を除けば」
サイラスは酒で喉を潤し、テリオンから止められないことを確認して続きを語る。
「私にはキミの指す普通の生活がどういったものか想像がつかないから、教えてくれないか。明日の食事を気にせず生きることができれば良いのか、食べるものがなくとも家で寝て暮らすことができれば普通と呼べるのか……まだ見当違いだろうか?」
「そうだな」盗賊は杯の底に残った酒を舐めるように飲み干し、酒気を帯びたため息をついた。
「……あんたが付き合うと言うなら答えてやってもいい」
「いいね! 話ならいくらでも付き合うとも」
長話を厭う盗賊が珍しく話に乗り気であったので、二つ返事で応える。
「いや、実演してやる」
盗賊が言葉で意図を訂正した。踊子の忠言なこんなところにまで効いているのかと埒外なことを考えながら、学者は想像する。
学者自身が定義する普通とは他者を押しのけることなく、その者がしたいようにすることを指す。つまるところ、学者からしてみれば盗賊もまた普通の一つなのだ。だから盗賊の提案はちょうど良かった。彼の言う普通を経験した上で、それでも普段の彼の生活もまた普通だろうと諭せば良い。
「なるほど……それは面白そうだ、構わないよ」
深謀遠慮な学者の浅はかな考えを、盗賊はどう思っただろう。だが、一つだけ確かなことがある。
「──恋の相手になってくれ」
この時点で、学者サイラスは盗賊テリオンの罠に嵌まってしまっていたのだ。
翌朝、サイラスは肩に衝撃を受けて目が覚めた。どうやら狭いベッドにもう一人、誰か眠っているらしい。
「誰が……テリオン?」
くうくうと年相応のかわいらしい寝顔を見せ、テリオンはぐっすりと眠っている。盗賊だから常に周囲に意識を払っていると言っていたのは彼のはずだが──と旅中での言動を振り返ったのも束の間、サイラスは昨晩のことを思い出して人差し指の側腹を下顎に添える。
そうだった。今日一日、テリオンが『普通』を演じるというので、サイラスも約束に則り恋人役として振る舞わねばならない。
サイラスが起きてもなおテリオンが目を開かないのは、彼の言うところの普通がそういう姿であると示したいからだろう。眠っているように見えるが、起きないように意図的に目を瞑っているといえばよいか。
「ええと……なんだったかな。まずは、身体を揺すって……『テリオン、朝だよ』」
「……あんたに演技は期待しちゃいないが、もう少し自然にやれないのか」
「いつものように起こせばよかったかな」
「次からはそうしてくれ」
「次?」
今日一日だけの話ではなかっただろうか。ベッドの上で首を傾げても、テリオンは何も言わずに調理場へ向かう。
朝食を準備し、共に食卓につく。ここでもなにかしら求められるのかとテリオンの様子を観察していたが、特に頼まれることはなかった。
「あんたはいつも何をして過ごしているんだ」
バゲットにチーズを一切れ乗せ、その大半を口の中に収めてテリオンが問う。
「読書、あるいは論文や翻訳の執筆かな。目を通しておかねばならないものが多いんだ。……けれど今日はキミに付き合うと決めたから、そういった予定はないよ」
「いい心掛けだ」
そう言って残りの部分を口に放り、傍らのブドウを数粒、手に取る。
「買い出しに出たい。あんたもついてこい」
「町の南の方に市場がある。そちらの方に出かけてはどうだろう。栄えているから、目当てのものも見つかるはずだ」
そんなふうに今日の予定を二人で定め、サイラスの淹れた紅茶を──珈琲でも良かったが、テリオンが苦いものは朝は避けたいというので紅茶となった──飲む。
市場が開くまで時間があったため、サイラスはテリオンに駒遊びを教えた。いくつかの役柄を持つ駒を相手の陣地へ進め、頭を奪えば勝ちとなる。簡単だろうと言って手解きまでしたが、それならカードの方がいいとテリオンは匙を投げた。
仕方なく、二人でポーカーをして過ごし、折を見て市場へ向かう。
「キミの言う『普通』とは穏やかだね」
道中、サイラスが感想を述べると、テリオンは肩を竦めた。
「あんたが知りたいと言ったんだろ」
「意外に思ったのではなく、刺激の少ない始まりだと感じたまでだ」
「……なら、こういうのはどうだ」
テリオンがサイラスの手を取り、指を絡める。そのまま手は彼の上着の内側に引き込まれたので、周囲に悟られることはないだろう。
「手を繫ぐことが刺激になるのかい?」
「恋人役をすると言ったことをもう忘れたのか?」
「忘れてはいないさ。ただ、こんなことで良いのかと思って」
身構えていたことを明かすと、おもむろにテリオンは足を止める。
「あんたはどこまで許すつもりだ?」
路地裏に押し込まれた。繋いだ手はいつの間にか解かれ、壁に縫い付けられている。
「テリオン? なにを……」
「あんたにとっちゃお遊びかもしれないが、こっちはそれなりにするつもりだぞ。たとえば──」
テリオンの手に下顎を掴まれ、くい、とわずかに持ち上げられたと思えば口付けられる。咄嗟にテリオンの肩を掴んだが、押しのける前に脚を割り開くように迫られ、ぎくりと身体を強張らせた。
縫い付けられた片手はピクリとも動かせず、されるがままとなる。
「──こういったことも、恋人なら『普通』のはずだ」
「そう……かもしれないね」
間近で目を見つめ返し、テリオンの瞳の色を観察する。深い緑──マラカイトに似た瞳にはサイラスの驚いた顔が反射していた。
ため息とともに、テリオンが離れる。
「かもしれないって何だ」
「実を言うと、誰かの恋人となった経験はないんだ。全てが初めてのことだから、キミの言うことを参考にする他なくて」
「……。……今のも、初めてだったのか?」
「え、ああ、まあ……」
伺うような視線からは同情のような、好奇のような色が感じられたが、サイラスは甘んじて受け入れた。年を考えると、キスの経験がない方が珍しい。
「ともかく、次からは事前に言ってからするように。突然だと驚くだろう?」
「あのな……そもそも男相手にキスなんて許すな」
「ただの男ならば拒んださ。キミと私の間には信頼関係があり、今回のことだって了承した上で演じている。『恋人役』は私には向かない役柄だろうが、仮とはいえ恋人なる存在ができてどう自分の考えが変わるのか、私も興味がある」
「もういい。行くぞ」
促されるまま元の道を辿り、市場へ出向く。
テリオンが難しい顔をしていたことが印象に残った。
その日はそれ以上のこともなく、ただ彼に付き合い外に出て、あとはいつも通り仕事をして過ごした。特に大したこともなく終わった、というのが印象だ。キスをされたのは意外だったが、テリオンのことだ、流石に懲りて、もうすることはないだろう。
翌朝、彼は先に起きていた。ストールを巻きながら戸口に立つ。
「旅に出る。また次ここに立ち寄った時は『普通』に迎えてくれ」
「迎えるのは構わないが、それは平常通りという意味かい? それとも、」
「『恋人役』として、だ。『普通』が一日そこらで終わるわけないだろ」
「私にも都合があるからね。可能であれば、と回答しておこう」
ローブやベストを着る暇はなく、ブラウス姿のままで見送りに出る。
「……わかった」
ストールで顔の下半分を覆い隠しながら、テリオンは玄関先の階段を下りた。
「気を付けて」
「あんたもな」
軽い挨拶を交わし、テリオンが視線を寄越すので軽く手を振ってやる。戸口に左手をつき、角を曲がるまで見送ってから家の中へ戻った。
そうして、時折、テリオンがアトラスダムを訪れるようになった。
相変わらず『恋人役』というのは変わらず、サイラスは比較的健全な付き合いをする恋人を演じた。身体的な接触は事前に確認してからと言ったせいか、「まさか手を繋ぐのも許可がいることはないだろうな」などとテリオンらしい物言いで問われた時は、サイラスも恋人らしくその時の気分や状況に合わせて応じた。
数回の滞在を経て、テリオンがサイラスの自宅の家具や物の配置について覚え始めると、逗留日数の全日を『普通』の日にしたいと彼は言い出した。
「つまり、ここ数日は私の家にいるのだね?」
『恋人役』と言っても大して変わることもないので、サイラスは平然と応じた。テリオンは神妙に頷く。
「構わないよ」
「……ところで、あんたは恋人の経験はないと言っていたが、女や男を買った経験はあるのか?」
「それを聞く理由から知りたいね」
いつかは訊かれるだろうと推測はしていた。
テリオンは間を置かずに反応があったことに驚いたのか、目を瞠った後、ややあって視線を外す。
「…………素人は、面倒がかかると言うだろ」
「その言い方は女性に失礼ではないかな。初めて肌を許すのだから、不安や緊張もあるだろう。無防備な姿を晒すのはキミとて抵抗を覚えるはずだ」
「そうじゃない。受け入れる準備と時間が必要だと聞いた」
「そうだね。それで、それと私への問いに一体何の関係が……」
言い終わらぬ内に察したサイラスは、信じられない思いでテリオンの顔を見つめた。
「私にその役目は難しいよ」
「嫌か?」
「物理的に難しいだろう? 女性ではないのだから」
「難しくはないと言ったら、あんたは受け入れるのか」
「──……」
言葉通り、サイラス自身の経験と嫌かどうかを確認したいのだろう。慎重に言葉を選ぶ。
「先の質問に答えようか。どちらの経験もないよ」
「それで?」
テリオンの反応が普段通りであったので、口元に添えた手をそのままに、素直に白状した。
「……話が違うな、と感じたかな。キミのいう『普通』とやらを知るために体験に付き合うとは言ったが、性的欲求を発散したいのなら適任は他にもいるはずだ」
敢えて女や男といった言葉は使わなかった。テリオンがどちらを抱きたいにせよ、擬似的な体験にわざわざリスクを伴う必要があるだろうか。性的な欲求不満があるなら然るべき相手と発散すれば良いし、そうでないにしてもサイラスがその役目を担うのは不適切だ。
知るために関わっているだけで、本来の恋人ではないのだから。
「……分かった。この話はもうしない」
「うん」
もしかするとテリオンはこういった役割遊びに絆されやすいのかもしれない。忠告も兼ねてそれを伝えると、彼は苦虫を噛み潰したような顔で、ご忠告どうも、と言って窓から出ていった。
秋の木枯らしに目を覚まし、窓を開ける。
風が頬を撫で、その冷たさに思わず肩を竦めた。
あれからしばらく、テリオンは姿を見せていない。はじめは忠告が効いたのだろうと思っていたサイラスだったが、半年が経過した今は、無事かどうかを心配し始めている。
テリオンの言う『普通』の生活は穏やかなものだった。その生活が自身の生活と似通っていたから気付くのが遅れたが、あれは、盗賊として生きる彼にとって、続けるには難しい類の穏やかさだったのではないだろうか。娼婦を頼らず『恋人役』としたサイラスと事に及ぼうとしたのも、彼自身が本来そのような生活はできないと考えていたからではないか。
『普通の人生なんて諦めている』
彼はそう言っていた。その上で示してくれたというのに、サイラスの心構えはあまりにもお粗末だっただろう。
けれど、ふと、思うのだ。サイラスとの会話でそのような流れになっただけで、テリオンが望めば、他の誰かとそうなることだって可能なのではなかろうか。
彼がそれに気付き、実演を止めたのなら、サイラスもそれに従うだけだ。もともとサイラスはそれを示したかったのだから。
トレサとオフィーリア、オルベリクがやってきたのはその日の午後のことだった。学院を訪れた三人を歓迎し、午後の講義もなく、仕事の区切りも良かったため、サイラスも一緒になって学院を出る。
酒場では彼らに食事をご馳走した。聞けば聖火教会の依頼で旅をしているらしい。
「実はね、テリオンも一緒だったの。でも、リプルタイドでアーフェンと合流して、付いていくって別れちゃったのよね」
「へえ」
トレサの口からテリオンの名前が出た時、一瞬、呼吸のしづらさを感じたが、相槌は平然と打つことができた。
「久しぶりに会ったというから、積もる話もあったんだろう」
「二人共仲が良いですし」
「えーっ、絶対あれはお酒が飲みたいからよ。絶対そう!」
「はは。なんにせよ、息災ならなによりだ」
三人のこれまでの旅の話に耳を傾けながら、酒を流し込む。酔うことはできなくても、酒を飲めば多少は気が紛れる。
他者を押しのけることなく、その者がしたいようにすること。それがサイラスの思う『普通』であり、テリオンはまさにサイラスのいう『普通』の日常を送っている。それが分かったのなら、十分だった。
「……サイラス、どうした」
「ん? なにが?」
「いや、……何もないならいい」
オルベリクに気づかわれてしまった。三人を宿に見送るまでは努めて平常通りに応対し、一人、帰路についたところで知らず、ため息が出た。
サイラスにはするべきことがあり、他者を気づかい共に生きる道よりも適切な距離で助け合う道を選び、ここまで来た。今更考えを改めることはない。ないが──テリオンと演じたあの生活は、居心地が良かったなと思った。
そうか、と腑に落ちる。
(私にとっても、もう、手が届かないのか)
だから、こんなにも苦しいのだ。
「邪魔するぞ」
そんなふうに未練を燻らせつつも断ち切ろうと努めていたところに、再びテリオンが現れた。
サイラスはちょうど、図書館で調べ物をしていた。テレーズが、誰だろうかと怪訝な顔をして、こちらを見る。
「……久しぶりだね」
「ああ。相変わらずだな」
知己の間柄であると彼女に紹介する。テリオンは酒場で待っている、と言ってすぐに図書館を出ていった。
「先生も行かれますか?」
「いいや、きりの良いところまでやってしまおう」
考える時間を作るためにもそんな事を言って、結局、サイラスは日が暮れてから酒場へ向かった。
「遅かったな」
「急いでいたかい? それは悪かったね」
隣の席に腰を下ろし、酒を頼む。強めの酒にしたのは、その一杯で帰宅してもいいように、と思ってのことだ。
「それで、何の用事でここに?」
「……」
「テリオン?」
聞こえなかったのだろうか。首を傾げながら彼の腕を軽く突くと、聞こえている、と無愛想な答えが返る。
「悪かったな」
彼はそう言って、エールを一口飲んだ。
「……『恋人役』なんて馬鹿げた話にあんたが乗ってきたもんだから、調子に乗った」
「反省しているところ、申し訳ないが、なぜ私は謝罪をされているのだろうか? あれは私も興味があると言って乗った話なのだから、キミが謝ることではないよ」
「はあ……。あんたはどうしてそうやって他人をつけ上がらせるんだ」
「そんなつもりはないのだがね」
聞けば、ここ半年と数ヶ月、彼は仲間達と再び旅をして、相談に載ってもらっていたという。トレサ達がやってきたのも、それ故だったらしい。
そこまで話を暴露すると、テリオンは酔ったようで宿に帰ると席を立った。
ふらついていたので宿まで送り届け、自宅へ戻る。
話は分かったが、結局、彼は何をしに来たのだろう。
謝罪を口にしたということは、『恋人役』は終わりということか。
一人、ベッドの中で考える。そんなことを考えるのは、紛れもなくサイラス自身があの生活を惜しんでいるからだ。
結局、その夜はあまり眠れなかった。
朝早くにサイラスは宿へ赴いた。闇曜日であるので学院は休み。早朝に移動したので生徒や町人からどうしたのかと探られることもない。
宿の息子に頼み、テリオンを起こしてもらう。
「どうした」
彼はすぐに降りてきた。上着とストールを脇に抱えており、たった今起きたばかりであることは察せられた。
「話があるんだ。私の家まで来てくれないかな」
「……叩き起こすほどの話なんだろうな?」
「それは……どうかな。分からない」
あの生活を提案したのはテリオンだが、終わらせたのも彼だ。もう終わった話だとすると、さほど重要ではないかもしれない。
煮え切らない返事をどう思ったか、テリオンは渋々了承した。
道中、何度か質問を受けたが、全て家に着いてからと言って返答を避けた。
だから、扉を閉めて早々に話を切り出した。
「実を言うと、私も楽しんでいたんだ」
分かりやすく鍵をかけ、テリオンに持たせる。なにを、と彼は呟いた。
「キミの言う『普通』の生活は、キミにとって手が届かない生活なのかもしれない。けれど、私にはそうは思えなかった。これだけの条件が揃えば為せることではあるし、事実、キミは自らそれを選んでいないだけだとも思った。盗賊を辞めるなり、それなりの相手に出会うなりすれば、いつでも手に入れられる」
「……説教なら聞かんぞ。何が言いたい」
「協力したい」
鍵を持たせた手を両手で包む。
「あれから考えていた。さっきも言ったように、私も、キミとの日常を楽しんでいた。キミが家を出て、あの時間がもう二度と過ごせないことに気付いたとき、虚しさを覚えるほどには楽しかったんだ。テリオン」
手を離す。鍵をかけたのも、鍵を渡したのも、サイラスの選択であり、覚悟でもあった。
一晩中考えて、この感情の行く末を、テリオンに全てを委ねると決めた。
「だから、今度は私から提案させてほしい。キミが飽きるまでで良い。もうしばらく、恋人役とやらを私に担わせてくれないか」
「……自分が何を言っているのか、分かってるのか?」
テリオンの動作は軽いものだったが、サイラスが後方へ倒れ込むには十分な力だった。頭部が当たらぬよう身構えたサイラスの大腿を掴み、その間に身体を割り込ませる。
「俺は、あんたにこうしてやりたいと言ったんだぞ。あんたは話が違うと言ったはずだ」
「考え直した……のだが、納得してもらえないだろうか」
「──」
何かを言われる前にストールを掴んでテリオンの上半身を引き寄せる。鼻先に唇が当たって、違うな、と今度はよく顔を見て唇に口付けた。
「テリオン」
わずかに隙間を開けて、至近距離で名前を呼ぶ。
それからもう一度口付けようとして、止めた。いつか路地裏でテリオンがしたように真似してみたが、事前に一言言えと言ったのは自分だ。
「……すまない、言うのを忘れていた。口付けたいのだが、いいだろうか?」
突拍子もなさすぎて混乱させてしまっただろうか。返事がない。肩を押し返し、テリオンを押しのけようとしたが、微動だにしない。
じっと見上げて待っていると、ぽつりと、一言彼は詰めていた息を吐きながら口にした。
「一度で良かったんだ」
背中に腕がまわり、抱き寄せられる。
顔を覗き込もうとすると、彼の方から口付けられた。
キスは唇を重ね合わせるものと、舌や口内を触れ合わせるものと二つやり方がある。サイラスはどちらも許すつもりがあると示したくて、テリオンの唇を舌で舐めてみた。途端、自分のものではない舌が表面を擦り合わせてきて、身体を強ばらせる。
撫で、歯列をなぞり、口蓋を舌先で突かれる。それが分かっているのに、自分の舌は動かせず、息もままならない。肩をぎゅっと掴むと唇が解放され、は、と息を吸う。テリオンに訊く前に、自分からも口付けた。
衣服をどう脱がしあったのか、覚えていない。ただ気付けば肌に手のひらが触れていて、心臓の鼓動が早いことを確かめたテリオンは微かに笑ってさえいた。ベッドに移動することも忘れ、互いの一番敏感な箇所を擦り合わせる。縋り付くようにテリオンの肩に腕を伸ばし、汗で張り付く灰銀の髪を手櫛で横へ流した。
吐精した後は自分の精液を指に絡め、後孔へ指を差し入れた。ぐちぐちと水音を立てると興奮が性器にも伝わり、身体を動かす度に先端が揺れた。
「っは、ぁ、ここに……」
「言わせてくれ」
「? なに、を」
サイラスがテリオンの膝にまたがり、勃ち上がった性器の先端を菊座に押しつけたとき、テリオンは切羽詰まったように語り出した。
「『恋人役』なんてのは、嘘だ。──あんたのことが諦められなくて、嘘でもいいから欲しかったんだ。サイラス、俺は」
啄むようなキスをして、吐息の中で彼は囁く。それに答える間もなく中に亀頭が沈められ、サイラスは喘いだ。深く息を吸って、吐いて、自重をかけて、受け入れる。
それから気が遠くなったり近くなったりを繰り返しながら、テリオンの腕に手をかけていられなくなるまで交わった。相性が良かったのか、初めてにしては痛みを越える快楽があり、いつまでも耽っていたい気分だった。
眠気で瞼が持ち上がらなくなってきて、ようやくテリオンに休みたいと声を掛ける。
「まだ、数日ここにいてくれるなら……何度も、できるだろう?」
「……そうだな」
どちらからともなく目を瞑り、キスをする。それが次回のこの時間の約束となり、その日は日が暮れるまで二人ベッドから動かなかった。