だめ、お願い
隣の部屋が仲間の部屋でなければ、気にせずテリオンとまぐわうようになってしまった。
(……しかし彼にとって宿は家のようなものであるし、そう考えるとなかなか拒みようもないというか)
サイラスの自宅が近ければ家に招くのだが、生憎と今は旅の途中であり、仲間もいる。テリオンとそういうことをするためだけにアトラスダムに向かうのも変な話であるし、年若い娘たちはこぞって自分たちの関係を囃し立てるだろうと思うと、テリオンと同室となった際、言われるままに受け入れるのは当然のように思われる。
袖に腕を通したところでくしゃみをすると、丁度湯を浴びて戻ってきたテリオンが呆れたように見てきた。
「風邪引くぞ」
「分かっているよ」
「どうせ考え事でもしてたんだろ」
テリオンの口振りはすっかり情事の時の優しさが抜け落ち、素っ気ない。ただ、一息ついたサイラスに毛布を被せてくるあたり、口先だけの照れ隠しと取ることもできた。
なにせ、以前、似たようなやり取りをした際、先程の閨での出来事を振り返っていたと答えると、それならもう一回するか?と訊いてきたことがある。
だからサイラスはここではあえて彼の言葉に頷き、素直に礼を述べて毛布を受け取った。
向かいのベッドに横になり、頭の水気を取るテリオンを見つめていると、なんだ、と目が問う。
「物足りないのか?」
「そういうわけではないよ。……見ているくらい、別にいいだろう?」
テリオンは無言になったが、浴布(タオル)を椅子に掛けると、彼の方からサイラスを見返してこう言った。
「物足りないわけないか。あれだけ善がっていたらな」
にや、と口角が上がるのは彼の笑い方の癖であり、悪気がないことはわかっているのだが。
このとき情事の疲れも相まって、サイラスは思わず上体を起こして反論した。
「それはキミのせいだろう」
「責任転嫁か? 強請ったのはあんたのほうだろ」
反論しかけた口を閉ざし、サイラスは黙考する。
──実を言えば、この盗賊は口で言うほど惡い男ではなかった。先程の毛布のこともあるように、とにかく気のつく男で、他人に対して嘘をつくことを厭い、他人を傷付けることにおいても(特に精神面においては)躊躇するほどには根が良い。
そんな彼が、閨において手付きが優しく、気遣いに溢れていると言っても疑われることはないだろう。
だが、このあまりに誠実で、できた人間であるがために、サイラスはテリオンに一つだけ不満があった。
不満というか、言いたくても言えない、愚痴のようなものである。
男性同士の性行為ともなれば、挿入など果たさずとも満たされることは明らかだが、テリオンとサイラスにおいては挿入もまた行為に含まれた。いや、行為に何があろうとサイラスの抱える思いとはなんら関係ない。
──とにかく、「いや」「だめ」などと口にしようものなら、彼は必ず行為を止めてしまう。この一点において、特にその加減について、物申したいことがあった。
挿入時は特に、外的要因による刺激よりも直接内部で受け止める情報が多く、このときにおいてサイラスはつい、「待ってくれ」や「いまはだめ」などといったことを口走りやすい。
最初は、テリオンが配慮してくれることそのもの、即ち彼の人柄に対していちいち感動して言葉を選んでいたサイラスだったが、回数を重ね、単純に挿れる挿れないだけが問題ではなくなった今においては、その感動も薄れてきていた。
つまり、この、特定の言葉だけが使えないことを、もどかしく感じ始めていた。
当然ながら、行為自体は喜ばしいものとして受け入れている。なのでテリオンに対してもそのあたりは感謝しかないのだが……だが、たまにはそう言っても止めないでほしい、と思うわけだ。
いつも人を気にしてばかりの彼に、このときだけでも自分本位であってほしい。
そう、考えるようになってしまってから、とにかくその言葉を言っても止めないでほしい、と頼みたくて仕方がなかった。
(……なんて、彼に言ったところで、困らせるだけだろう)
サイラスはもとより、テリオンも、その境遇からか性行為にそこまで積極的ではない。必要だからすれば良い、と考えていた過去を乗り越えてやっとそういう事が当たり前になったので、これ以上彼に行動を求めることへの引け目があった。
一方で、経験をすればするほど、もっとしたいと、趣向を変えて楽しむのもありでは、と好奇心がうずく自分もたしかにいて。
「……では、強請らなければ止めていたということか」
ぽつんと事実を口にしたつもりだったが、テリオンが表情を改めたのを見て、間違えた、と察した。
「いや、なんでもない。キミの言うとおりだ。……いつもありがとう、というのは妙な気もするが、……ありがとう。おやすみ」
「……おい、待て」
「……」
「いくらあんたでもすぐに寝ないことくらいは知ってる」
音もなく近寄ったテリオンに毛布を捲られる。焦燥に駆られたその顔を見て、やはり言うべきではないなとサイラスは自分に言い聞かせた。
「すまない。妙なことを言った自覚はあるのだが、どう謝れば良いのか分からない」
「そもそも、なんであんたが謝るんだ」
「……私の発言がキミを驚かせたようなので、」
「驚くだろ。あんたが、」
テリオンはそこで躊躇いがちにサイラスの手を取った。
「……不満じみたことを言うのは、初めて見た」
「? そうだろうか?」
彼にはこれまで闇市を嫌っていることなど、隠すことなく詳らかにしてきた自覚があるだけに、首を傾げた。
「それよりもキミの方にはなにかないのかい。こうしたいとか、これは嫌だとか、私に言うことが全く無いとは言わないだろう? 普段のように」
話が長いだとか要件を言えだとか、サイラスがいると話が大きくなって面倒だとか、これまでにも多くのことを言われてきたが、恋人になってからというもの、彼からそういった話を聞いたことがなかった。戦略の違いで、戦闘時に彼のストールが焦げた時を除いて。
「……普段のように? なんだそれは」
「思い当たらないのなら、それはそれで嬉しい限りだがね。とにかく、もう夜も遅くなってしまったことだし、続きは明日にしよう」
笑いかけるとテリオンは不承不承頷いた。が、そのままサイラスのベッドに潜り込んでくる。
「テリオン?」
「いいだろ、別に」
良くはない。共寝が嫌なわけではないが、ゆったりとベッドで寝られる機会は限られているし、テリオンも疲れがあるはずだ。ゆっくりと寝るなら向かいのベッドに戻るべきだ。
サイラスがそう言い聞かせたところで、テリオンは引かない。背中側に張り付くように抱き着いたかと思うと、首の裏に頭を擦り寄せ、小さな声で彼は呟いた。
「……別にあんたが強請らなくてもしたからな」
「! そう……」
ぎゅうと抱き竦めたあと、テリオンは寝息を立て始める。寝られる時に寝る方針であるようだから、それは別にいいのだが。
(こ、この状態で寝られるわけが……ないのだが)
好きな相手に抱きしめられたまま寝られるのは途方もない贅沢だと理解しているが、欲求不満を自覚しているだけにこの状況はあまりに酷だ。
散々口付けられ、舐められた首筋にはテリオンの髪が触れ、背中にはその体温を感じる。腹に回された腕はどことなく腰を押さえつける時を思わせて、何がとは言わないが、今のサイラスにはよろしくない。
魔法学の教本を思い浮かべ、最初から一言一句を脳内で読み上げる。
それ以上考えると、一人で発散しないといけなくなりそうだった。
***
日頃の欲求不満は、別のことで気を紛らわすことが可能だ。
サイラスでいえば翻訳や読書、研究論文の執筆がそれに当たる。
だが、ここ数日はずっと読書をしていた。それも少々過激な描写のある小説を読み耽っていた。
今夜は、テリオンはアーフェンやオルベリクと飲むと言っていた。なのでサイラスが寝巻き姿でベッドに座り、シーツの下に隠した下肢に手を伸ばしたくなるのをこらえながら読書をしていても、気付かれることはない。
本の内容は、単純なものだ。恋愛を取り扱ったもので、男性と女性に身分差があり、なかなか思い通りに二人きりになれないというものである。この話の重視しているところは恋愛というよりも男女の淫らな行為のようで、特に女性の感じる懊悩について、多様な表現が用いられていた。
サイラスは小説や戯曲といったものを好まない。共感することもなく、事実を知りたいだけなら数ページ読むだけで十分だからだ。
だが、今は。この小説の文章一つ一つが我が事のように感じられ、続きが気になってしまうのだ。
男女の身体の作りは異なるが、官能の受け取り方は似ているらしい。
『だめ、やめて、壊れちゃう。そう言いながらも、もっとしてほしいと思うのだから身体は正直だ。』
『いっそう彼を感じてしまう。膝を擦り合わせると、彼は笑って、私に触れた。』
テリオンの手が、自分の同じ箇所をなぞっていたら。中に埋められていたら、どう感じただろう。想像というよりは昨日の最中のことを思い起こしていると、勝手に膝を擦り合わせ、挿れてほしさに中が疼いた。
手や道具を使うことも、もちろん頭を過ったが、結局サイラスはどちらも使えず、小説を読み耽る。
彼にこうしてもらえたら、こうしてあげたらどうかと想像をする。無意味なことだと分かっていても、実際に叶わぬ以上、こうする以外の発散方法がわからない。
睦み合いのシーンを読み終えると、まるで今まさに自分もそれを終えたかのような疲れを感じた。念の為に下着を確認するが、濡れてはいない。うっかり兆しかけてはいたが、一息ついたことで萎えたようだ。
(……一人で、してみようか)
ふと、そんな邪な考えが過る。欲求不満を自覚していて、それを相手に知らせることなく発散するなら、自慰をするしかないのだが、テリオンと付き合い始めてからというもの、しばらく一人でしたことはなかった。
ただ、一人でしたところで、満足できるわけでもない。男であるからすること自体に問題はないのだが、既に受け入れる善さを覚えた身体はもう、一人の行為で満足できなくなっていた。
(それに、ただ性欲が発散できれば良い訳ではない。……彼に、)
無理矢理、されてみたいのだ。
サイラスは思わず口元を片手で覆い、唸る。
扉の開く音がして、ハッと視線をそちらへ向けた。テリオンが戻ってきたのだ。
「おかえり。早かったね」
「トレサに追いやられた。……読んでたのか」
「あ、ああ。うん」
さり気なく枕の下に隠しながら答える。テリオンは大きな息をつきながらストールを外し、どかっとベッドに腰を下ろした。上衣も脱いで、適当に足元に追いやるとシーツを被る。寝るらしい。
角灯の明かりを最小限に絞り、サイラスもベッドに横たわった。
つい先程まで淫らなことを考えていたせいか、妙に沈黙が歯がゆい。かといって疲れている彼に無理に話しかける気も起こらず、それとなく向かいのベッドを様子見る。寝息は聞こえないが、一定の間隔で起伏するシーツの塊から、寝たのだろうと推測した。
八人で旅をしているのだから、一人になれる時というのはほとんどない。稀に、昼前に町についた時には、夜まで自由行動となることがあるが、テリオンはそんなとき決まって部屋で寝ることが多かった。
(今なら、彼も気付かないのでは?)
これがアーフェンであれば、寝入った後なら大丈夫だろうと安心できたのだが、生憎とテリオンはすぐに臨戦態勢を取れるよう気を張っていることが多い。流石に旅も長くなってきたし、恋人と同室ともなれば気も緩むのか、寝坊することも増えてきたが、果たして。
(……流石に良くないだろう)
結局、その夜サイラスは一人で慰めることすら諦め、大人しく眠った。
それからしばらく、そういった小説を読んで気を紛らわせることが増えた。娯楽小説は貴族の子女に好まれる傾向にあり、こういった過激なものも多いのだろう。ストーンガードを経由する商人に尋ねると、大抵一冊は品として扱っていることを知った。
中身に満足することはなかなか難しいが、それでも慰めにはなっただろうか。
野営のためにテリオンとの行為が遠退いても、サイラスはあまり気にせず過ごすことができた。
「それじゃあ……乾杯!」
グランポートで、トレサが見事ウィンダム家令嬢が求める品を差し出した夜のことだ。
和気あいあいと盛り上がり、宴は深夜を過ぎても続いた。やがて眠くなってきたと女性陣が立ち上がり、サイラスも彼女たちを手伝うていで席を離れた。テリオンはアーフェンとオルベリクとまだ飲むと言ってカウンターに残り、そんな彼の後ろ姿を名残惜しく見つめながら、サイラスは宿へ向かった。
昼間の戦闘で疲れていた。酒が軽く回っていたこともあるだろう。ほんの少しなら一人でしてもいいのでは、と部屋に戻って考えた。
発散の機会を持たないと、どうにも下半身が重くなる。自慰自体は男性には必要な行為であるから、恥じ入ることはないはず。
「……とはいっても、どうしたものか」
一人で耽るには集中力がいる。まだ気恥ずかしさや戸惑いのあるサイラスにはなかなか難しい。
ひとまず服を着替え、本を取り出した。読めば、多少はその気になるだろうと思った。
(テリオンとは、どうしていただろうか)
下着が汚れては困るので、一応、脱いでおく。タオルは持ち運びのものが乾いていたのでそれを使うとして、あとは手で触れるだけだ。
小説を開く。女性が男性に無理矢理に犯されているシーンを開く。合意の上での行為のようだし、男性が女性に煽られてのことなので、特別恐れるシーンではなかった。
煽る──ふと、気になった。
どうやら男性にとって女性の反応が魅力的に映り、強引になったというのがこのシーンの主旨だ。これと同じことができれば、テリオンももう少し自分本位になってくれるのではないか。
しかし、このシーンでは基本的に女性が否を唱えており、それを男性が好意的に解釈することで成り立っている。嫌だなどと言ってしまえば止められてしまう現状において、これは解決策とは言い難い。
他にはないか。パラパラとめくると、女性が自分の体をアピールし、誘うシーンになった。
サイラスが女性なら、テリオンが男性を好きなら、可能性はあったかもしれないが。生憎と男性であるし、筋肉質とは無縁の身体であるのでサイラスはため息をつく。
せめてそういった手管を学ぶことができれば、この思いも晴らすことができるのだろうか。
栞を挟み、本を置く。
不意に、ぎし、きし、と廊下の方で人の行き来する足音が聞こえ、現実に引き戻された。
「……やめよう」
脇に置いていた下着を取り、足を通した時だ。
ガチャ、と扉が開いた。テリオンだ。
「! 悪い」
「い、いや……閉めてくれ」
「ああ」
テリオンが扉の方を向いている間に、慌てて下着を履き、寝間着の裾を膝まで下ろす。
「思うより早かったね」
「……まあ、そうだな」
様子を見るに、そこまで酔ってはいなさそうだ。では何故先程はああ言ったのだろう。
サイラスが片付け忘れた小説を何気ない仕草で手に取り、鞄にしまおうとすると、どこか言いづらそうにテリオンが口を開く。
「学者先生、……いや、サイラス」
「うん?」
「最近その類の小説ばかり読んでいるみたいだが、あんたの趣味か?」
鞄をそっと足元に置き、テリオンを見上げる。
──目が合った途端動揺したのは、思うよりずっと真剣な色を感じたからだ。
「趣味……というほど、読んではいないと思うが。というか、キミはこれを読んだことが?」
「ない。が、プリムロゼが読んだことがあるらしい。べらべらと話していたぞ」
失念していた。年頃の女性が読むということは、彼女も触れている可能性があった。
しかし何故彼がこの本を気にしたのか、サイラスにはよく分からなかった。
「それで?」
「本と、あんたが今さっきまで下着を脱いでいたことと、どんな関係があるのか知りたい」
「……!」
予期せぬ指摘に、身体に火が灯るような激しい羞恥を覚えた。
「いや、さっきは……着替えていたんだ」
「ほう。なら聞くが」テリオンは本を拾い上げ、栞を挟んでいたページを開き、数行目で追いかけたあと、ぱたんと閉じた。
「こういう本を読むときだけ着替えているのはなぜだ? 教えてくれ、学者先生。……これはあんたの何に役立ってる?」
余裕のある物言いから、彼自身、検討が付いているのだとサイラスは理解した。
おそらく、自慰なりなんなりしていたのだと疑われている。
だが、実際は違う。読書をしていただけだ。……少々、特殊な状態ではあったが。
──ふと、閃く。今の状況は、先程読んだページに書いてあった内容と酷似している。
素直になれない彼女は、事実と異なることを挙げ連ねて恋人の興味を引き、見事性行為に持ち込んでいた。
テリオンはどうだろう。ここで、例えば、男を誘う手管が乗っていて参考になる、と言えば、煽ることができるだろうか。
(いや、そんなことを言えば彼を傷つけてしまう。却下だ)
「……そこまで考えることか?」
「ん? ああ、まあ、そうだね……」
やはり、自分に向かないことをするものではない。サイラスは素直に、話は参考になったよ、と返した。
「主人公とは似ても似つかないが、恋人を恋しく思って空回る場面には親近感を持てた」
「……俺が聞いたのは、この本は相当な数の性描写があり、一部春画として使われてるという話だった」
「そうか。では……」
口振りから、あながち先程の考えは間違っていないのでは、と考えた。サイラスは努めてにこやかに微笑みかけ、テリオンの首に腕を回す。
「キミは、私が毎度この本を片手に、一人でしていると考えたわけだね?」
「……」
否定しないのは、図星だからだ。
顔を近付けても目を合わせようとしてくれないので、そのまま形の良い耳に囁く。
「酷いな。私はキミとしかしたくないのに」
「……!」
サイラスの作戦は成功したようだ。目を剥くテリオンの顔を引き寄せ、口付けると、すぐに腔内へ招かれた。テリオンの腕がサイラスの柳腰を捉える。背中を撫で下ろすその手の感触に気を取られていると、口付けが深くなった。
好む接触に思わず身震いする。期待したのだ。
しかし、身体を密着させる手前、テリオンがサイラスを引き剥がす。
「したいのか?」
「……そうだね、したいな。だめかな?」
「だめじゃないが……、清潔じゃない」
「気にしないよ。それに、そういうことならば私が手伝おう」
テリオンに引き止められる前にさっと床に正座し、腰布とズボンを脱がせる。
「ね、お願いだ。今夜は私に身を任せてくれないか。キミの好きに抱かれたい」
「……あんたな。そういうことはどこから学んでくるんだ?」
「学んでなどいないさ。強いて言えば、……キミからかな」
顎を持ち上げられたかと思えば、舌を指で挟まれる。
見上げたテリオンの瞳には、確かに劣情の炎が灯り、いつになくギラついていた。