この扉を開けたら
「抱かれる気になったら部屋に来い」
そう言ってテリオンが部屋に閉じこもってから、一時間が経った。
茶葉に湯を注ぐと柑橘類の爽やかな香りが漂い、未だ状況を整理し終わらないサイラスの思考にやすらぎを与えた。
ローブを脱ぎ、壁のフックに掛ける。ベストもそのまま掛け、上がブラウスだけとなったところで扉をもう一度見やった。中で大人しく待っているのか、それとも、もう寝てしまったのか、扉の向こうからは何の物音も聞こえず、気配や音に細かい盗賊の本気に、もう一度額に手を当てる。
「……いけない。紅茶が冷めてしまう」
茶器を円卓に運び、一人掛けソファに腰を落とす。
温かな紅茶を口に含むと、身体が温まって安堵のような安らぎを覚えた。卓上へ戻し、肘置きに頬杖をついて脚を組む。それから、一時間が経った今も前に進めぬ自分に、深いため息をついた。
『抱かれる気になったら』というのは、おそらくただのハグではない。他人からの好意には等しく自分なりの好意で返答してきたサイラスだったが、テリオンの言葉をその通り受け止めているのには理由があった。
数年前、アトラスダムから外に出て、とある書物を探す旅をした。その旅路で出会ったのが、テリオンを始めとする七人の旅人だ。職も育った環境も旅の目的も異なる仲間たちだったが、不思議と馬が合い、旅は非常に楽しく充実したものとなった。
サイラスとテリオンが彼らと別行動を取ったのは、単に旅の目的を果たしたから──それだけだった。ダスクバロウとノースリーチへ向かう道はほとんど同じで、あとは分かれ道をどちらに進むかだけだった。ゆえに、その道を戻るときには自然と二人の目的は果たされ、ハンイットの故郷シ・ワルキで仲間たちを見送った。ハンイットもまた、旅の目的を果たしていたので、二人を見送ったのは彼女一人だけだ。
二人はその後、示し合わせたわけでもなくボルダーフォールへ向かった。サイラスがテリオンについていったのは彼らの関係が親密であった、というわけではなく、中つ海を船で渡ったほうがフロストランドを徒歩で越えるより楽だったからだ。
テリオンとはそこで別れるつもりでいたサイラスだったが、レイヴァース家に見送られるように階段を降りてきた盗賊は特に何も言うこともなく船のチケットを見せてきたので、なるほどついてくるらしいと了承した。
慣れない船旅だ。二人、甲板から嘔吐しながら海を乗り越え、顔面蒼白のまま降り立ったのはリプルタイド。宿で数日療養し、それからようやく、アトラスダムへ向かった。
アトラスダムに戻ったサイラスを待っていたのは生徒と、学院の事務作業に、図書館での研究だ。これをテリオンが手伝うと言って居座り、手を借りるうちに新たな関係が築かれていった。
友人、仕事の助手、あるいは教師、生徒。テリオンについてサイラスはもとより学者に向いていると思っていたので、テリオンが学者の仕事を彼なりにやってのけるところに違和感はなかった。知識こそ少ないが、それはサイラスが手を貸せばいいだけのこと。
持ちつ持たれつの関係を周囲は穏やかに見守っていたし、中にはテリオンの能力を見込んで引き抜こうとする学者もいたほどだった。
そんな二人であったが、さらにそこに新たな関係が芽生えた。話をすると楽しくなって一向に言葉の途切れないサイラスと、それを悪くはない顔で見守るテリオンという関係だ。
言葉少なだが傾聴の姿勢を持つテリオンと、傾聴の姿勢はありながら持ちうる言葉が多く語りの止まらないサイラスは、傍目から見ても収まりの良い二人だった。外見に目がくらみ話を聞きに来る異性は多けれど、サイラスの楽しげな長話に付き合い続けた者は一人もいない。サイラスに好意を抱かぬ者であっても彼の長話には付き合いきれないと匙を投げることが多く、そんな中、テリオンだけはじっと聞いては時折言葉を返した。
たとえ他人からの恋愛的感情に疎いサイラスであっても、テリオンの好意は正しく認識できた。なんなら旅初めの頃は話を切られることも多かっただけに、この変化に少なからず感謝していたし、嬉しくも思っていた。
そんなわけで、夜半時、図書館に二人きりで作業をしていて、サイラスがこれまでの考えをまとめるべくして語っていた最中にテリオンが顔を寄せてきても、大げさに驚くことはなかった。ただ、このままだと顔が触れるのではという考えが過り、テリオン、と名前を呼ぶために話を止めたその時、それまでのゆったりした動作が嘘のように急に唇を重ねられて、目を見開いた。
語ろうとした次の言葉が代わりに飛び出し、今の接触の意味を問わんとする言葉を探しているうちにもう一度唇を塞がれて、流石に口を閉じた。
「……終わるまで待てなかったのかい?」
「こうでもしないと止まらないだろ」
接触への不快感はなく、驚きも僅かで、傾聴していたばかりのテリオンが話し始めたことに興味を引かれて、気付けばそういった触れ合いを拒む理由もなくなっていた。
性別や年齢について、サイラスはもともと深く気にしない。年下であっても自分の知らぬ知識を持つのであれば敬意を払い、年上であっても理由なくへりくだることはしなかった。それが盗賊として人々から忌み嫌われても仕方ないと自覚しているテリオンには、ちょうど良かったのかもしれない。
「あんたとなら、こういうことをしてもいいと思った」
唇の触れ合いが何度か行われた後、彼はそのように告白した。好きだとか愛しているだとか、この世にはわかりやすい愛の言葉が存在するが、それよりも素直な、彼の本心だとわかる言葉はサイラスの胸に響いた。
応える理由もなければ、断る理由もない。サイラスもまたテリオンへの好意を正しく伝えるためにそのように返答し、嫌でない限りなら、とその手を差し出した。
「曖昧な返答で申し訳ないが、キミとの関係を終わらせたくないと思っていることだけは分かってほしい」
「……知ってるさ」
握手をしたのは、互いの了承を肌で感じるため。そのまま手を引かれても従ったのは、テリオンの好意を受け止めるためだった。
──要するに、世間の言う恋人や愛人や夫婦といった間柄ではないにしろ、それ相応に互いの心を許し合っている状態にいた。
サイラスはそれで良いと思っていたのだが、テリオンはまた違ったらしい。最初に一言告げるあたりが彼なりの優しさで、すなわちこの時間はサイラスに許された猶予であり、考え直す時間でもあった。
今日の宿はアトラスダムからそう離れていない街に立地し、隣の部屋と扉を共有していた。テリオンが閉めた扉はまさしくテリオンが借りた部屋に通じる扉で、運良く、といえばよいのか向かいの部屋は無人だという。
断るなら、このまま寝てしまえばいい。そうでないなら、扉を開けてテリオンに応えればいい。
それだけのことを悩んでいて、時間をかければかけるほどテリオンにノーを突きつけるようで居心地が悪かった。
(……そう、居心地が悪い)
答えはもう出たも同然だ。だから動けない。
抱かれるの意味をきちんと理解していないから、動けないのだ。
「……テリオン、質問をしたいのだが」
「ノーコメントだ」
試しにノックをしてから訊ねれば、扉の向こうからくぐもった声がした。質問は許されないらしい。
扉を開けるか、開けないか。いや、鍵をかけてしまえば否定となるのか? なんにせよ、今ある情報で判断せよという。
ハグではないとして、では抱かれるとはどうなのか。すぐにできてしまえるものなのか。これらの質問に答えてくれるのかどうか、それが分かれば答えようもあるのだが。
「……不毛だ」
もう既にサイラスは扉を開けてテリオンと話す気でいる。それなのに、いつまでも足踏みをしていた。
「…………よし」
たとえどんなことであっても、テリオンならば無理強いすることはないだろう。そんな彼への信頼から、サイラスは勢いよく扉を押し開いた。
「──いいんだな?」
向かいにはベッドの上に腰掛けるテリオンがいた。腕を組み、片足は行儀悪くもう片膝の上に乗せ、待っている間手持ち無沙汰だったのかリンゴやら短剣やらが散らばっていた。
なぜだかその様子から彼の緊張を感じ取って、サイラスは一瞬、引き返したくなった。紅茶で潤したはずの喉に、渇きを覚える。
「……もちろんだとも」
覚悟が消えてなくなる前に、テリオンの手が伸ばされた。