外堀を埋める
テリオンが忘れ物をした。
痕跡を残さぬ大盗賊にしては非常に珍しいミスで、それを指摘する手紙を送るのもなと思い、ひとまず研究室の机上に置くことにした。
サイラスの自宅は教えていないので、忘れず彼に渡すとなると、こちらの方が都合が良いのだ。
「先生の持ち物ですか?」
「ああこれは、……」
ただの装備品であるから、訪れた生徒や同僚からはサイラスの物に見えても仕方ない。
そのままサイラスのものだと偽り、話を流しても良かったのだが、ふと、悪い考えが過ぎり、返答を迷ってしまった。
「先生?」
「いや、すまない。彼の忘れ物でね」
「……そうですか」
テレーズは神妙に頷き、部屋を出ていく。
部屋に一人残されたところで、忘れ物を取り上げ、引き出しにしまった。
「あんた、男ができたと噂されてたぞ」
久しぶりに再会したテリオンは、開口一番揶揄するようにそう言った。酒場で情報収集をする彼のことだ、大方、ここへ来る前に酒場で飲んで来たのだろう。
「そうか。しかし、なんでまたそんな噂が?」
「さてな。預かりものを大事そうに持っていただとか、女と付き合わないのはそういうことだとか、憶測は飛び交っていたが……どうなんだ?」
「どうもなにも」
肩を竦める以外に返すことがない。
テリオンは勝手知ったるように部屋のソファへ座る。
机に足を乗せるので一言注意してから、サイラスは引き出しの中から忘れ物を取り出した。
「そういえは忘れていたよ」
「……そうだったな」
「珍しいじゃないか。どこか具合でも悪かったのでは?」
「どうだか。覚えてない」
テリオンに渡すと、彼は忘れ物を──リングをポケットに仕舞うでもなく人差し指に嵌め、サイラスを見上げた。
「他にあんたの預かりものはないのか?」
「今のところはそれだけかな」
「ふん……」
サイラスが自席へ戻るまでを意味深に見守られるが、探られても痛いところはない。テリオンに見せつけるように書物を積み上げ、卓上の紅茶を指した。
「冷めないうちに飲むといい。私は少し書き留めてからいただくよ」
「これはなんだ」
「先日ハンイットくんが立ち寄ってくれてね。分けてもらったものだ」
音がしたので、視線を上げる。ハンイット、オフィーリアと共に作った焼き菓子をテリオンが静かに食べていた。横顔を見守っていると、目が合う。
「……なんだよ」
「味はどうだい?」
ハンイットが生地を作り、サイラスは型を取っただけなので、味は保証されているのだが、感想を聞くまでの僅かな間、緊張してしまう。
「うまい」
「だろうね」
ほっとして、再び手元へ視線を落とす。
「あんたが噂を放置するとは意外だった」
「すべてを否定して回るのもおかしな話だ。キミと私の間になにもないことは、私達が一番よく分かっているじゃないか」
あらかじめ推測していたので、これにはすぐに返答できた。片手間に答えて、ペンを動かす。
──どうせ叶わないことなのだから、噂の中で関係を持ちたいと思ってもいいだろう。
そんな傲慢な考えを抱くほどにはテリオンのことを好いていて、同じくらい冷静に、仲間として信頼していた。
どのみち、テリオンがアトラスダムに滞在する期間は短い。次に訪れる頃にはもう、噂などなくなっている。
まさか酒場でそんな話が出ているとは思いもしなかったが、サイラスは相手が誰かなど口にしたことはないからテリオンに不都合はないはずだ。
「……そうだな」
呆れたようにテリオンが同意する。
その声に傷付かないよう言い聞かせながら、手元の文字を追いかけた。
作業を再開したサイラスの平然としたその顔を見つめていたテリオンは、相手が集中したことを察してソファに寝転がり、欠伸をした。
サイラスに男ができたなどという噂を聞いたときは驚いたものの、話を聞けばテリオンがわざと置いていったものを、サイラスが恋人の忘れ物だと言ったことから始まったという。
都合が良いので、尾ひれをつけて修正しておいたのだが、学者の耳にはまだ届いていないらしい。
どこまでも鈍いこの学者に、真正面からアプローチをするには準備が要る。その間にどこぞの誰かに奪われるのは──可能性が低いとしても──避けたかったテリオンにとって、今回の噂は都合が良かった。
外堀りを埋めておけば、それこそあとは本人を落とすだけである。
が、当人が否定せぬとなると、これはもしかすると、もしかするのではないかとも感じている。
サイラスはおそらく、テリオンが立ち寄る本当の理由に気付いていない。きっと言わない限り気づかぬだろうし、準備もせずに言ったところで、仲間としての好意とみなされるだけだ。
ならば、こちらからそうだと伝わるように教えてやればいい。
鍵を何十も仕掛けたような男であるのは承知の上だ。一つ一つ解きながら、示していくだけ。
(……気の長い話だ)
眠気のままに目蓋を閉ざし、穏やかな一時に身を委ねた。
視界が暗いなと思い、手燭に火を灯す。
衣擦れの音がした。顔を上げると、ソファの上に人影がある。
「暗いな」
「寝ていたのか。気付かなかったよ」
まあな、と欠伸を噛み殺しながら呟いてテリオンが立ち上がる。戸口へ向かうのかと思われた影は机の前まで移動すると、サイラスがペンをインクに浸したところで片手を出してきた。
「酒を飲む。少しは付き合え」
「あと少しだけなんだ。待ってもらえないか?」
「……ただで待ってやるのもな」
ついと顎を拾われて、驚いた。
テリオンがこんなふうに軽率に他人に触れる人とは思っていなかったからだ。
蝋の上で、炎が揺らめく。
紙のこすれる音がして、テリオンが片手をついたからだと理解したときには、その顔は離れていた。
「……今、」
問いかけようとしたがテリオンはふいと背中を向けてソファへ寝てしまう。妙な沈黙が先程触れた熱を意識させ、とてもじゃないがペンを持ち直す気にはなれず、インク瓶の蓋を閉めた。
手燭を持ってソファへ近寄る。
彼は前髪とストールで顔のほとんどを隠しきっており、目だけが眩しそうにサイラスを見上げた。
「眩しい。急に持ってくるな」
「あ、すまない……」
手燭をローテーブルへ置くとその間にテリオンが起き上がる。
「嫌だったか?」
本意を問う前に訊ねられて、思わず彼を振り返った。
期待と不安で指先が震える。この話を続けたところで傷を負うだけだと分かっているのに、その問いかけの不自然さが気になって、目が離せない。
「……快不快を問う前に、同意を取るべきだとは思う。いくら仲間内の冗談にせよ、こういった行為は自分を貶め兼ねない」
「冗談だと思ったのか?」
キシ、とソファの軋む音がした。テリオンが背筋を伸ばし、反対にサイラスが上体を引いたからだった。
「冗談でなければ……妙だと」
動揺が隠せない。首を振る。
「いや、キミの幸せを決めつけることはできないが、とにかく、そういうことは軽率にするものではないし、……キミが本当にそうしたいと思う相手にする方がいい」
「……それは遠回しにあんたは悪く思っていないように聞こえるぜ?」
「うん。そうだね……そうだ」
言いながら口元を片手で隠し、遅れてやってきた自覚と羞恥に耐えきれずテリオンから目を逸らす。
「──しばらく、忘れられそうにない」
声が震えたような気がして口を噤む。こんな状態で酒場に行くなど無理な話であるので、深呼吸を一つしてから席を立つ──立てなかった。
「忘れてもらっちゃ困るからな」
手燭の明かりを背に受けて、テリオンが覆い被さってくる。押し留めようとした手を取られ、その指を絡め取られてしまう頃にはもう、何も考えられなくなっていた。