そばにいるよ

■落ち込んでいるテリオンさんをサイラスが気遣う場合

普段はしなやかに、滑らかに伸ばされる指先が微かに震えたことをサイラスは見逃さなかった。
言及しなかったのはそれが皆の前であり、オフィーリアやアーフェンが彼の治療を終えた後で、さらに言えばトレサと会話をしながらの何気ない仕草であったからだった。
(……短剣を取ろうとしたようだが)
オルベリク、ハンイットに続いて道を歩く。先頭を進むプリムロゼの赤を目印に、一行はハイランドの奥地を目指していた。

エバーホルドの宿屋に辿り着くと、腹を満たしに酒場へ行く者と脚を休ませる者とに別れた。
戦闘も厳しく、一仕事したぜとアーフェンが腕を伸ばした先がテリオンであったので、そのまま二人はエールでも飲みに酒場に向かうのだろう。今更、嫉妬心すら起こらないが、気持ちが良いとは言えないのでそっと視線を逸らして宿へ向かう。
オフィーリア、トレサ、それからプリムロゼが先に受付を済ませていて、二人部屋の鍵を預かると彼女たちに続いて部屋へと向かった。
「あら、テリオン。行かなかったの?」
扉の開く音。それからプリムロゼの声に顔を上げ、階下を見てみるとテリオンがいた。
どうやら戻ってきたらしい彼は、まあな、と聞き取りにくい低い声で応じ、サイラスの手元に目をやる。
「同室でいいな?」
「構わないよ」
一人でゆったりと寛げばよいのに、彼はサイラスの後に続いて部屋に入る。
「使うぞ」
律儀に一言だけ告げてベッドに倒れ込む。サイラスもローブを壁にかけて肩を軽くした。鞄を置いて、しずけさを誤魔化す。
テリオンはうつ伏せに寝たまま動かない。右手首の包帯は新しいものが付け足されていて、前腕のほとんどが覆われていた。治さなかったのだろうか。
とにもかくにも疲れたのだろう、と考え、サイラスは無言のまま水差しの蓋を開ける。有り難いことに、高所の宿ながら水は用意してくれているらしい。水筒に移して喉を潤し、自分もベッドに腰掛けた。
鞄の中から、書物を取り出す。読みかけの本に魔導書に、辺獄の書と辞典だ。最低限のものしか持ってこれなかったので仕方ないが、この中で空き時間に付き合ってくれるのは読みかけの本だけである。
はらりとページを捲る音を立てると、少しだけテリオンが身動いだ。右手首を気にしているような、庇うような寝返り方だった。
「……治さなかったのかい?」
「薬が切れたんだと」
「そうか」
火傷や毒など、状態に変化を与える負傷は回復魔法では治せない。様子がおかしい要因はそれだろうと考え、思い至る。
「痛むのでは?」
「……軽い火傷だ」
寝ることは諦めたのか、テリオンは仰向けになると右手首の包帯を解いてみせた。
「どれ」
「触るなよ」
本を置いて彼の空けたスペースに腰掛ける。手に触れて見えるように近付けると、前腕の外側に微かに赤くなった箇所があった。
「この程度なら自然治癒で治るらしい」
シーツに散らばった包帯に紛れて、氷柱の欠片があった。これで冷やしていたようだ。
無表情の彼を見下ろし、手を離す。
「……ふむ」
「なんだ」
「なにか落ち込むことでもあったのかな、と」
頬に手を伸ばしても振り払われることはなかった。テリオンとはそういうことを許し合っている仲で、なんなら同室となった今、この行為にはもう一つの意味すら持たせられることも可能だが、それを含めても心配しているのだと示したかった。
出会ったはじめの頃は毛先が跳ねていた銀髪も、今では指通りが良くなっている。指先で軽く梳くとテリオンはこちらを向いて身を寄せた。
ため息を一つ。
「……加減を間違えた」
思わず、手を止める。
彼が火傷をするに到った戦闘過程を振り返り、今度は頭を撫でた。
「トレサくんたちは無事だった」
接近戦だった。剣や槍は魔法と比べ、どうしても魔物に近付かねばならない。そんな場面で彼が珍しく鬼火を放ったのは、ひとえに前に出ていた仲間たちを守るためだ。
結果、怪我をしたのは彼一人だけ。それも魔物による怪我ではない。十分な成果だ。
火傷の痛みも含めて慰めたいと思うが、しかし、おそらくこれ以上触れると彼の自尊心を傷付けてしまうだろう。
サイラスは唇を閉ざし、腰に巻き付いてきた腕を素直に受け入れた。静かに頭を撫で続けて、機嫌が治るまでそばに居る。
そのくらいしか、彼にしてやれることはなかった。

■サイラスが珍しく凹んでいる場合
※モブが出ます



街角で女に呼び止められ、笑顔で談笑する学者はよく見かける。相手が男であれば多少彼も警戒するが、女性となると自分との体格差から気が緩むのだろう。朗らかに笑って、そういえば、と説明を始める。
講義じみてきた一人語りは女ウケが悪い。テリオンですら理解しているというのに、彼は正しくすべての情報を伝えることが誠実だと思うようで、このときも話の途中で割って入り、そそくさと離れた女性の後ろ姿をやや呆然と見送った。
──見覚えのある後ろ姿だった。この街に着いたとき、テリオンのことを調べ、近寄ってきた町娘と似ていた。その娘からは盗みの依頼がしたいと言われて、断った。彼女も訳ありらしく、結局のところは巻き込まれる形で願いを叶えてしまったが、それ以来、会ってはいない。会うつもりもないので構わない。
では、なぜ彼女のことを思い出したのかというと、サイラスが今逃げ去った娘の後ろ姿をじっと見つめていたからだ。
出会い頭であれば、横目にすら流さない。
少なからず彼の方に関心があるとするなら、その娘くらいしか思い当たる節がなかった。
「どうした」
話しかけると、彼はテリオンを振り返り、開けた口を一度閉ざした。それから、吐息を一つ。まるで冷静さを意識するように肩を落とした。
「……見ていたのなら隠しようがないか。これを」
「なんだ?」
「キミに渡してほしい、と」
綺麗に整えた指先には手紙があった。
「学問に興味を持ってくれたのかと思って、話し込んでしまったよ……」
苦笑いを浮かべているのだろうその顔を見上げようとして、止めた。手紙を受け取り、短剣で封を切る。
(……他人宛の手紙を隠すようなやつじゃない)
彼が、嫉妬で行動を変えるような人間だとは思っていない。ただ、これを、テリオンへの好意を綴ったものだと考えないのだろうか。
「──ここで読むより、宿の方がいい」
中身を取り出そうとした手に、やんわりと手が重ねられた。
ひどく冷えた掌に握られ、離される。
聞いたのかと咄嗟に睨み上げたものの、サイラスの方が先に動いたせいで、彼の表情はよく見えなかった。


大人しく宿に戻り、部屋で手紙の中身を読めば、やはり恋文と差し支えない文章が綴られていた。文字が読めることはサイラスに聞いたらしい。良い返事を待っている、と締めくくられているが、テリオンはサイラスとすでに恋人同士であり、彼女に応えることはできない。
書くより言った方が早そうだ。町娘を探して外に出た。
夕暮れ刻だ。影は長く伸び、夕飯の下ごしらえか女の姿は少なく、仕事を終えたらしい者達が道具を肩に、酒場や自宅へ吸い込まれていく。
町娘の家は町の端にあった。窓から白い煙が上がり、匂いから夕飯を作っているのだろうと察する。
扉をノックした。
「はーい。どちらさま、……テリオンさん!」
彼女は色めき立ったものの、雰囲気から用件を理解したらしい。サイラス経由で渡された手紙を差し出す。
「悪いが、いい返事はやれそうにない」
「……でも、サイラスさんが、」
震える声で言い返しながらも、娘は確かにそれを受け取った。テリオンともサイラスとも違う、小さくて細い指先だった。
「テリオンさんは、女性とはお付き合いしていないって言ったのに」
心臓の位置がずれたような、そんな衝撃があった。
あの時テリオンに宿へ戻るよう言ったのは、恋文を往来で開くなという、ただそれだけの忠告だと思っていた。
「……そうだな」
「じゃあ、どうして?」
どうしてもこうしてもない。テリオンは盗賊であるし、一つ所に留まることもない。娘のことを嫌ってはいないが、そんなふうに見たことも見ることもない。
なにより、サイラスがいる。
そう言えば良いだけなのに、サイラスが自分たちの関係を明かさなかったことを思い、口が重くなる。
「……好きなやつが、他にいる。それだけだ」
ようやっとそれだけ絞り出し、引き止める声を無視して家を離れる。
その後しばらく、町中を歩いて回った。
宿に戻ったがサイラスの姿はなく、仲間達に聞けば、酒場にもいなかったと聞いたからだ。露店を物色しているのでは、とトレサが町の露店について語ってくれたが、そこにもサイラスの姿は見当たらない。
日が暮れる。薄暗闇が訪れる。
どこだ。
「どうかしたかい?」
背筋を伝う汗に嫌な予感を覚えた矢先、声がした。
黒靴が砂を削るような音を立て、角灯がテリオンを淡く照らす。軽く乱れた息を整え、サイラスに近寄った。角灯を持つ手に触れる。冷えたままだった。
「……どこに行ってた」
「そこの高台に。集会をよく開く場所らしい。広々として、ベンチもあるから読書にちょうど良かったんだ」
示された方へ上向けば、なるほどそれらしい広場があると見て取れる。
「これから酒場に向かうよ。キミは?」
「行く」
角灯を奪い、もう片方の手で冷えた手を取る。
「テリオン?」
「冷えすぎだ」
「風が吹いていたからだろう。それほど寒さは感じていないよ」
つらつらと言い訳を述べはじめるが、解くつもりはない。角灯があることで繋いだ手は影になり、他人からは見えないだろう。
指を絡めて、繋ぎ直す。歩き回ったせいでテリオンの方が体温が高く、サイラスの手の冷たさは心地良かった。
「あの手紙の返事はもうしてきた」
「……上から見えたよ」
彼は握り返すこともなくテリオンに従う。ここでほんの少しでも変化があれば嫉妬を期待できたが、違うらしい。
「なら、何を気にしてたんだ?」
「無駄話だと、言われてね」
彼は、ぽつりとそれだけ零した。
あの町娘に、そう言われたのだろう。手紙を渡したいだけなのに長話をされたなら、言いたくなる気持ちも分からないではない。
手指に力を込める。華奢ではないのにどこか頼りなさを覚えるその手に、熱を分ける。
「言われたからって気にする必要ないだろ」
「……そうだね。ありがとう」
少しだけこちらへ肩を寄せて、サイラスは小さく息を吐いた。

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