限月に君は微笑み


前書き

この話は、頂き物の「春待月の拾い物」を前提にしたお話です。
先にそちらの話を読んだ上でご覧ください。

1.

「切らないのかい? それ」
 それは何気ない問いのつもりだった。
 テリオンがアトラスダムに来て一年が経ち、学生としてサイラスと顔を合わせることが増えた頃。講義の質問があると呼び止められたサイラスは、嬉々として質問に答えた後、テリオンが何気なく後ろ髪を鬱陶しげに払ったのを見てそう訊ねた。
 彼は、あ?と訝しんだ後、自身の髪のことだと気付いて口を噤む。
 しかし、サイラスが黙って返事を待つのを見て、渋々口を開いた。
「……これがここの恰好なんだろ」
「え……どうだろう。流行はあったかもしれないが、人によるような」
 学者というのは物事に没頭しやすく、身だしなみなどは二の次だ。
 かくいうサイラスも読書や書き物の邪魔になるからとまとめやすい髪型にしているだけで、こだわりはない。
 テリオンは元々顔に傷があったから髪を伸ばして隠しているのだろうと思われるが、後ろ髪を伸ばす必要性はどこにもない。彼自身、手先が器用であるから、自分で髪を短くすることも可能なはずだ。
 だからてっきり、敢えてそうしている理由があるのかとサイラスは推察したわけだが──なるほど、盗賊を前身とする彼らしい発想によるものかと納得する。
「伸ばすのなら、結んでもよいかもしれない。髪紐を貸そうか?」
「そのくらい自分で調達するさ」
 サイラスの髪紐は布の切れ端を使ったものであるので、数も多く、自分でもいくつか持ち歩いている。減ったところでまた古着を切ればよいだけなので、軽い気持ちで提案したわけだが、テリオンはそれを施しとでも受け取ったのだろう、すっぱりと断ると、次の講義があると言って去ってしまった。
 ちらり、ちらりと、すれ違った女学生がテリオンを横目に見送る。
 このアトラスダム学院において、三属性を取得した学生は少ない。サイラスのことを天才だとのたまう人間がいるのも、三属性の術式をまとめて扱えるからだろう。
 炎、氷、雷。各エレメントは大気中に存在し、学者の知識はそれらを一つの形に結びつける、いわば糸のようなものである。
 ウィスプやエレメントと呼ばれる不定形の魔物が観測されるように、はたまた、各職業で言い伝えのように継承されているように、属性を操作すること自体は一般的だ。学者が特徴とするのは『誰でも、適切な知識を学びさえすれば、属性を操ることができる』ことだけ。
 よって、操作可能な属性の数が多いということは、必然的に相応の知識を備えていることを指し、学び舎においてはその大変さが目に見えてわかるため、一目置かれるのだ。
 分かってはいるのだが、テリオンが他者からの視線をそのまま受け止めている姿が、どうにも珍しく感じてしまう。盗賊の時はそれこそ人目に悟られないようにしていたから、余計にだ。ストレスとなってはいないかとそれとなく気にかけても、彼はそれをおくびにも出さないので、サイラスにはどうしようもない。
「……おっと、講義に遅れてしまう」
 テリオンの姿が教室に消えてようやく、自分も受け持ちの講義があったなと、サイラスは一階の教室へ向かった。

 今日の分の講義を終え、自由時間となる。
 既に日は傾き、学舎に生徒は少ない。サイラスも後は自宅で仕事をしようと、鞄に荷物をまとめて町へ出た。
 テリオンは学院の寮に住んでいるため、食事の心配はいらない。同じ町にいながら、酒を飲み交わすこともほとんどなかった。
(……みんなと居たときは、彼もそこに座っていたな)
 カウンター席で一人酒を飲んでいると、つい話し相手を求めて店内を眺めてしまう。テリオンが居たなら、今日の講義はどうだったか、分からないところはないか、気になる学問はなかったかなどと聞けただろうに。
 これまで食事を気にしたことなど一度もないのに、テリオンの話を人から聞く機会が増えるにつれ、そんなふうに思うようになっていた。
 帰り道、市場を通り過ぎる。明日が闇曜日であるからか、この時間まで商いをする店が多い。
 サイラスが『それ』に目を留めたのも、偶然だった。
「おっ、学者先生ですかい? 髪紐、いるよねえ。どうです? これ、染料で染めてましてね。綺麗でしょう?」
 その店は主に衣装やローブを並べていたが、店の端に、服に合わせた彩り豊かな髪紐や髪飾りを並べていた。
「女性への贈り物なら、こういうのがおすすめですよ」
「ああいや、そんなつもりでは」
「では、自分用ですかね。先生ならローブに合わせてこのあたりの色が良さそうですぜ」
 黒、紺、金と無難な髪紐を勧められたが、サイラスがもとより目を付けていたのはその上の段に飾られていた、ウィスタリアの糸が使われた髪紐である。
 テリオンは白髪……もとい白や白銀といった、淡い髪色をしているので、色のついた髪紐が似合うだろうと思ったのだ。なにより、彼の盗賊衣装もまた、ウィスタリアである。
「こちらにしますかい?」
「そうだね。もらおうか」
「付けていきますか?」
「箱に包んでくれ」
 商人はお任せくださいよ、と軽やかな手つきで箱にしまい、リボンで留める。
 リーフを支払い、髪紐を受け取り、鞄にしまった。
 次に会った時に渡そうと考えたのは、彼の頑張りを労いたかったためだった。

 闇曜日を過ぎて、さらに翌日。鞄に箱が入っていることを確認して、家を出た。学生達の登校時間より早いが、最近、テリオンは予習を欠かさず行っているため、始業時間より早く来ることが多いのだ。
 どこにいるだろうか、と玄関に入ってからあたりを見渡していたが、生徒たちから挨拶を受けて、突っ立っていては不自然かと教師の部屋へ向かう。
(まあ、講義が重なれば、顔を合わせることもあるだろう)
 予測した通り、この日、サイラスの受け持つ授業にテリオンは出席していた。
 が、その髪は既に一つにまとめられていた。
 サイラスと同じく古着を切ったか、あるいは自分で調達すると言っていた通り、買ってきたのか。とにかく彼が髪紐を持っているのなら、サイラスが買ったこれは不要となる。
「……それでは今日の授業はここまで。次回の授業までに、六章と七章に目を通しておくように」
 いつもの調子で課題を告げて、教室を後にする。テリオンに話しかける女生徒の姿を目端に捉える。
「珍しいね、結ぶことにしたの?」
 そんな声が聞こえたが返答までは聞き取れなかった。
 自分の研究室へ向かう。部屋に入るや、荷物を脇に避け、ふうとため息をつきながら着席した。
(どうしようか)
 箱を取り出し、開ける。変わらずそこには、紫色の髪紐が鎮座する。
 これまでの自分なら、きっと予備があっても困らないだろうと言ってそのまま渡したはずだ。だが、今このとき、それはできないと思う自分がいた。
 なにより、冷静に考えてみれば、教師と生徒である。贈答品の類は誤解を生む。ただでさえ──虚偽であったとは言え──前科があるのだから、生徒たちに不信や不満を抱かせるような真似はしたくない。
 かといって、では自分用に使うかというと、それも気が乗らない。
「……日持ちを考えるものでもない。置いておこう」
 結局、サイラスは髪紐を巾着袋に入れ直し、鞄の中にしまっておくことにしたのだった。


2.

「キミはなにを飲む?」
「決まってる。エールだ」
 その髪紐が、今、テリオンの髪を結んでいる。
 あの時より幾分か伸びた灰銀の髪に、紫色の紐はやはりよく似合っていた。
 揺れる紐の先を眩しげに見つめ、サイラスもまた蒸留酒を頼む。同席する彼が、酒の飲むペースに文句をつけないことをよく知っていたからだった。
 今日は奉火祭のおかげか、酒場に学者らしき姿はほとんど見当たらない。生徒たちはもとよりこのような場を避けるだろうから、ここでテリオンと飲むにあたり、気兼ねすることはなかった。
「試験、お疲れ様」
「あんたもな」
 出されたマグを掲げて、酒を飲む。
「私はキミと違って試験は受けていないのだが」
「教師はこの後採点だろ」
「ああ、なるほど。ありがとう」
 やはり、誰かと──テリオンと酒が飲めるのは嬉しい。試験の話に始まり、やがてサイラスの専門の話に移っても、テリオンは学んだ知識を下に時折質問や相槌を打ちながら、嫌な顔一つせず話に乗ってくれた。
 知らないというから説明をして、相手の理解を知るために耳を傾けて、自分にない閃きと発想から飛んでくる返答は興味深い。
 この夜がサイラスにとって夢のようなひとときだったのは間違いない。
 テリオンがやがて眠そうに目頭を押さえ始めたとき、もうそんな時間か、と思うより先に、もう少し弱い酒にしておくべきだったと思ってしまった。量こそ多くはないが、彼はある程度、酒には強い。
「試験の疲れが出たのだろう。帰ろうか」
「ああ……悪い」
「いいよ。払わせてくれ」
 リーフを気にする素振りを見せたので、祝いであることを念を押して伝える。
 彼は断ったが、肩を貸す。雪がちらついて、凍えるように寒い夜だった。
 吐く息が白く染まる。紺碧の空の下、暖色の灯火を頼りに寮の近くまで共に歩く。もう話などできないほど眠気が回っているであろうことは分かっていたが、それでも、今夜は楽しかった、と口にした。
 寮のある通りまで角を曲がるだけとなったところで、テリオンが足をすべらせた。慌てて抱きとめると、灰銀の髪が頬に当たった。
 思ったより近いところに彼の顔があったが、それよりも鼻先が赤くなっていることを気にした。
「早く寮に戻ろう。寒そうだ」
「……」
 眠そうに目を細めて睨んできたので、ああやはり我慢していたのだろうと思い、サイラスは急ぎテリオンを寮の前まで送った。
「気を付けて帰れよ」
「もちろん」
 ひら、と片手を振って、別れる。
 頬や耳は冷気に触れて痛みを覚えるほど、火照っていた。

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