春待月の拾い物
前書き
この話は管理人の誕生日にいただいた最高の宝物です。
1
目の前にそびえる標的をにらみ、テリオンは深呼吸した。
片手には魔導書がある。彼は読まずともそこに記された文章を知っていた。瞳をいっそう鋭くすがめ、唇を動かして、あたりに漂う属性の力に指向性を持たせるための言葉を紡ぐ。
「火炎よ……焼き尽くせ」
練習用の的がごうと燃え上がった。巻き起こった炎の余波により、テリオンがまとった黒ローブの裾がはためく。
一度目の炎は威力も範囲も申し分ない。だが、二度目は――固唾をのんで見守る先で、まとまりかけた魔力が霧散した。
テリオンはため息をついて魔導書を閉じた。
そばで練習の様子を見ていた男が、芝生を踏んでこちらに近づいてくる。
「ふむ、詠唱も魔力の扱いにも問題はないようだが……。氷と雷の大魔法は発動するのに、不思議だね」
テリオンは学者――かつての仲間であり、今は自分の教師となったサイラス・オルブライトを見上げる。
「原因は分かるか?」
「すまない、こういう例には遭遇したことがないんだ。私の方でも調べてみよう」
テリオンよりも装飾の多いローブをまとったサイラスが、おとがいを指でつまむ。テリオンはその長いまつげをじっと見つめた。相変わらず、何をしても様になる容姿だ。
考え込む学者から、炎が消えた的に視線を移動する。魔法の練習用として学院の中庭の一角に備えてあり、頑丈な石材なので何度でも使えるという寸法である。
テリオンは腰に手を当て、サイラスに声をかけた。
「遅くまで付き合わせたな」
「いいよ、今日の授業は終わったから。しかし……キミは相当根を詰めているようだね」
日の落ちた練習場に他の生徒はいない。彼はテリオンが昼間からずっとここにいたことに気づいたのだろう。冬の近づくアトラスダム王立学院の中庭にはうっすら霜が降りていて、分厚いローブをまとっていても肌寒かった。
約三年前、テリオンはこの学院に入学した。「学問を通じて魔法を極めたい」とサイラスのもとを訪ね、入学手続きをとってもらったのだ。勉学に励んでいると月日が経つのはあっという間で、いつしかテリオンは学生生活にもすっかり慣れた。
今はエルフリックの月、すなわち冬休みの手前であり、学院では定期試験がある。テリオンはその実技課題で詰まっていた。炎の大魔法がうまく使えないのだ。
サイラスはいつも肩にかけているローブに袖を通しながら――さすがに寒かったのだろう――口を開く。
「それにしても、キミがこうやって何かに苦戦するなんて珍しいね」
「ああ。今までこういう経験はなかった」
幼い頃から磨いた盗みの技術は気がついたら習得していた。八人での旅の間に経験した他のジョブでも、技を身につけられなかったことはない。当時、学者をやる機会がなかったことが今更ながらに悔やまれる。
すると、サイラスは多くの女生徒の心を射止める笑顔をつくった。テリオンは彼の生活圏内で暮らすようになってから、その厄介さを嫌というほど思い知ったものだ。
「器用なキミらしいよ。おそらく、盗賊として身につけた鬼火に慣れていて、大魔法の感覚がつかめていないのだろうが……」
「あれも基本は魔法と一緒なんだろ」
魔法という呼び名で区別されていても、根本は同じだと学院で習った。旅をしている時にもサイラスから似たような話を聞いたが、授業で改めて学んで驚いた覚えがある。
「そうだよ。やはりイメージの違いかな……?」
サイラスはブツブツつぶやきながら芝生の上を歩きはじめた。これは放っておくと長引きそうだ。
「今日は……助かった」
だからもう帰れ、と言おうとすると、
「待ってくれ、キミはまだ練習する気かい」サイラスに真顔で遮られた。
「何か言いたそうだな?」
「少し息抜きした方がいいよ。明日はしっかり休みなさい」
実に教師らしい発言だ。翌日は闇曜日、つまり授業はない。テリオンは片目でサイラスをにらんだ。
「あんたが言えることか? 山ほど宿題を持ち帰るんだろ」
この学者は時間がある限り図書館にこもる習慣があるのだ。辺獄の書の解読作業もしているのだろうが、そんな男に「息抜きしろ」と注意されたくはなかった。
「そ、それは……」
図星をさされたサイラスはしばしうろたえてから、ぽんと手を叩く。
「そうだ、こうしよう。明日は私の用事に付き合ってくれないか」
「ほう?」
ぴくりと心が反応する。確かにそれはテリオンにとっていい気分転換であり、ご褒美でもあった。彼の思惑などサイラスはつゆ知らず、にこりとする。
「実は頼まれごとをしていてね、それを手伝ってほしい。明日の朝、三度目の鐘が鳴った頃にキミの下宿に迎えに行くよ」
「分かった」
それでは、という涼しい声とともに長いローブが翻った。その背中を見送りながら、テリオンは胸元をそっと掴む。
アトラスダムに来てから二年と少々。やっとこの服装にも馴染み、サイラスとともに休日を過ごすことに違和感がなくなった。
彼は小さく嘆息した。
(ここまで長かったな……)
テリオンは、サイラスを盗み出すためにアトラスダムにやってきた。
自分の気持ちを自覚したのは、かつて八人で旅をしていた頃だった。だが相手はあらゆる異性の誘いをかわす人物で、たとえ言葉にしてもテリオンの思いは伝わるはずがないと思った。だからまずはサイラスの考えを理解すべく生活圏を共有をした。
入学してから短くない時間が経っても、幸いサイラスは独り身のままだった。縁談自体は頻繁に舞い込むらしいが、すべて跳ね除けているとテレーズ経由で聞いた。それについては、「サイラスは誰とも親密になる気はない」ではなく「俺にもチャンスはある」と前向きに考えることにした。テリオンは学院の生活を通して少しずつサイラスとの距離を縮めてきた――はずだ。それが今日の誘いに結びついた。
だが、大魔法くらい使えるようにならなければ、当初の目的である学者の理解に至ったとは言えないだろう。あと一歩が届かず彼は歯噛みしていた。
闇曜日の朝、テリオンは下宿の部屋で姿見の前に立って紐を取り出し、首筋の後ろで髪を結わえた。アトラスダムで暮らすうちに伸びた髪を一つにまとめることにしたのはいつだっただろう。あちらには気づかれていないだろうが、サイラスの髪型を意識した結果であることは間違いない。
「……よし」
最後にローブを羽織って腰紐をとめた。その時ちょうど鐘が鳴り、待ち構えていたかのようにドアがノックされる。
「おはようテリオン。おや、今日は休みだが」
扉を開けると、昨日と同じ格好のサイラスがいた。彼はテリオンのローブ姿を見咎めたらしく、珍しく唇を尖らせる。
「あんただって着てるだろ」
「まあね。では行こうか」
サイラスは肩をすくめ、さっと身を翻した。
テリオンは行き先を聞かずに肩を並べた。それでも「王城や学院のある地区を目指している」と分かるのは、この町で長く暮らしたからだ。二人は朝市でにぎわう市場を尻目に、広い街路をたどる。
テリオンが黙っていると、程なくサイラスが口を開いた。
「実は、猫がいなくなったんだ」
「……猫?」
あまりに真剣な顔で言うので、聞き間違えたかと思った。サイラスは少し目を細める。
「知らないかい? 学院でも有名な猫だよ。よく中庭で生徒たちがかわいがっているのを見かけるね。ここ数年で住み着いたようだ」
「ああ……あいつか」
町のあちこちに出没する野良猫で、餌をやる者がそれぞれ勝手に名前をつけているらしい。学院にいる時は、学者の守護神からとって「アレフ」と呼ばれている。テリオンは女子生徒が愛でている姿を遠巻きに見るだけで、直接その猫と関わったことはなかった。確か白い毛並みだったか。
「猫探しを頼まれたのか?」
「そうだよ。気分転換にはちょうどいいだろう」
というわけで、向かう先は休日の学院だ。授業がないので生徒はいないが、その他の学者たちが出入りするため鍵は開いている。扉を開け放つと、広い玄関ホールはがらんとしていた。
サイラスはそのままホールを突っ切って中庭に出る。そこは魔法の練習場だけでなく生徒たちの憩いの場でもあり、ところどころにベンチがあるが、今は閑散としていた。
太陽に雲がかかってあたりが陰り、寒風が吹いた。
「おや……雪だ」
サイラスが広げた手のひらに白い粒が載る。それはすぐに溶けて小さな水滴になった。
「今年は降るのが早いな」
テリオンは前髪についた雪を手で払う。少なくとも、過去二年でエルフリックの月の半ばに雪を見かけることはなかった。年が明けてからたまに積もって、通学に苦慮することがあるくらいか。
「フロストランドから大寒波がきているそうだよ。オフィーリア君が手紙に書いていた」
寒さに慣れている彼女は、温暖なフラットランドに住むサイラスが心配になったらしい。相変わらず気遣いのできる女性だ。
サイラスが短く刈られた草をさくさくと踏みながら、思いついたように言葉を宙に放る。
「そういえば……今回の寒波は、フラットランドの属性のバランスが崩れたために発生している、という説を聞いたよ」
「ほう?」
耳慣れぬ単語が引っかかり、テリオンは聞き返す。
「気候や海流などの要因によって、平原に集まる力が大きく氷属性に傾いている可能性があるらしい。キミの大魔法が不発になるのもそれが原因か……?」
話しながらサイラスはごく自然に一人の世界に入ってしまった。テリオンは彼の脇腹を小突いた。
「気分転換じゃなかったのか?」
「そうだった、すまないね」
よろめきとともに思考を切り替えたサイラスはテリオンを振り返り、大仰に両手を広げて説明する。
「さて、アレフ氏はこの中庭でよく日向ぼっこをしていた。だがテレーズ君の話によると、数日前から姿を見せていないらしい。そこで彼女をはじめとする生徒たちに『見つけてほしい』と頼まれたんだよ」
そういう話を持ちかけるということは、もしやテレーズは自分を助手に選んでほしかったのではないか。テリオンはたまたま彼女を出し抜いたことになるらしい。今日のことがばれたら恨まれそうだ。
テリオンは余計な考えを振り払い、腕組みした。
「その猫は町の方にも出るんだろ。そっちにもいないのか」
「ああ。猫は餌をくれる人のもとに、毎日同じ時間帯に顔を出していたが、ぱったり途絶えたそうだ。だから、まずは縁のある場所を調べるべきだろう」
「数日前なら何か痕が残っているかもな。探すか」
小さな命なのですでに儚くなっている可能性もあるが、何かしら痕跡を見つけないと生徒たちは納得しないだろう。
二人は広々とした中庭を手分けして探した。茂みを叩いたり、植木の幹を揺らしたりしてみたが、結局空振りだった。猫の足跡一つ見つからない。
テリオンは袖で額を拭った。いくら雪がちらついていても、これだけ動くと汗をかく。
「なあ、単に寒いから出てこなくなったんじゃないのか」
「その可能性はあるね……」
答えながらサイラスがくしゃみをする。これ以上外にいるのは危険と判断し、テリオンはさり気なく誘導した。
「他に心当たりの場所はないのか?」
「そうだね……学院の食堂に行ってみよう。アレフ氏はあそこにもよく来ていたそうだ」
冷え切った体を抱えた二人は、いそいそと屋内に駆け込んだ。
学院の建物内には、生徒たちが昼食をとるための部屋がある。安価で量の多い料理が出てくるのでテリオンもよく利用していた。上流階級の者たちには専用の別室があるらしい。
食堂は生徒用の施設のため休日は閉まっているはずだが、サイラスは鍵なしで扉を開けた。疑問のまなざしを受けた彼は説明する。
「奉火祭の準備をしているんだよ。生徒の数が多いから、料理の仕込みに時間がかかるんだ」
「ああ……あれか」
奉火祭とは、エルフリックの月に催される聖火教会の行事だ。その日は聖火神エルフリックが地上に聖火をもたらした日とされ、教会では荘厳な儀式が行われると聞く。
名称や概要くらいは知っていてもテリオンには長年関わりのない祭りだった。が、この学院ではよりによって期末試験の後に奉火祭にかこつけた晩餐会がある。勉学に励んだ生徒たちを慰労する意味があるらしい。
サイラスが少し含みのある視線を向けてくる。
「キミは晩餐会には行かないのかい?」
「興味ない。あんたもそうだろ」
「まあね。毎年誘いがあることはありがたいのだが……」
彼は困ったようにほおをかいた。旅先でも相当だったが、学院内のサイラスの人気は何年経っても衰えるところを知らない。きっと生徒に熱心に誘われるのだろう。晩餐会前に仲の良い者同士でプレゼントを交換する慣習があるらしいと聞いたから、サイラスはその用意が面倒で忌避しているのかもしれない。
二人は椅子とテーブルが規則正しく並ぶがらんとした食堂を抜けて、厨房に入った。そこでは数人の食事係が忙しそうに煮炊きをしていた。かまどの火が景気よく燃え、中庭で冷え切ったテリオンのほおに温度が戻る。
中でもよく食堂で顔を見る女性従業員に、サイラスは話しかけた。
「こんにちは」
「おや、サイラス先生。珍しいねこんな場所に」
サイラスの笑顔は年代を問わず効くようで、女性の顔が一瞬でとろける。彼はそれに気づかぬまま、
「少し話をしても? 実は、猫を探しているんだ」
彼は相手の了承を得てざっと事情を説明した。一旦かまどのそばを離れ、休憩に入った女性は首をかしげる。
「アレフちゃんだろ、最近見かけないねえ。私もミルクをあげてたけど……」
話を聞いている最中、テリオンはあるものを見つけた。その場にしゃがみ込む。厨房の床に、食べ物くずとは違う粉のようなものが撒かれていた。きらきらした赤い砂だ。指で触れると、かすかにあたたかい。鉱物の破片だろうか。
「学者先生、これが何か分かるか」
サイラスは話を切り上げて、テリオンの差し出した指に目を近づける。
「うん? 食品ではないようだが」
「あっちに続いているぞ」
テリオンが指さしたのは厨房の奥にあるドアだ。「食料庫」と書かれている。
「中を確認してもいいかな?」
「ええ、どうぞ」
サイラスが許可をとって倉庫に入った。こちらは厨房と違い薄暗くて寒い。食料を保管するのだから当然だが。
テリオンは窓のカーテンを開けて明かりを確保し、ざっと床を見回した。やはりあの赤い砂がある。さらに、厨房にはなかったものが砂の上にはっきりと残っていた。
「足跡だ」
大きさや形からしてほぼ間違いなく猫のものだ。しかもまだ新しい。
足跡の行く先は、食品が入っていると思しき木箱が並ぶ棚だ。サイラスは一箱開けてうなずいた。
「干物を保管しているのか。アレフ氏が来た可能性は高いね」
もしかすると、今もどこかに隠れているかもしれない。そう思って念入りに棚の裏まで探してみたが、予想は外れた。
「猫はどこか近くに潜伏していて、食料を確保しに来たのか?」
テリオンの思いつきに、サイラスが考え込む。
「この赤い砂がヒントになりそうだが……」
彼は鞄から拡大鏡を取り出して砂を観察した。
「ここで張り込むか? また猫が来るかもしれん」
「うーん……少し待ってくれ」
サイラスはまぶたを閉じて集中に入る。旅の間も度々見かけたが、彼はあの状態になると外界のどんな刺激に対しても無反応になる。その間は普段の数倍無防備になるので、テリオンは自然とまわりに気を配った。
学者は意識をあちらの世界に飛ばしたまま、唇を動かした。
「アレフ氏が学院内に出没しなくなったのは、誰かが餌に何かを混ぜたせい……という可能性も考えたが、今のところそういった証拠はない。だとすると、別の理由で出てこなくなったのだろう。おそらく寒がりというのは合っているね」
中庭にいたのは日向ぼっこのため、厨房に出てきたのは暖を取るため。しかし寒波が来てどこも冷え込み、猫は出歩かなくなった。
「暖を取る手段がこの砂なのかもしれない。これは少し魔力を帯びている。元は火の精霊石だったのではないかな」
やっとサイラスのまぶたが開いた。テリオンは周囲への警戒を解き、あごを引く。
「どこかに元の精霊石があるんじゃないのか。猫はそこから削って、体にまぶしてここまで歩いてきた」
それなら粉が床に散乱していることの理由がつくのでは、と思ったのだ。サイラスは助手の推理に対し、満足げにうなずいた。
「そうだね。アレフ氏はこの近くの、他よりもあたたかい場所にいる……」
厨房が猫の根城にならなかったのは、人のいない夜間は寒くなるためだろう。つまり、一日中気温が変わらない場所が怪しい。
テリオンは学び舎の構造を隅々まで思い浮かべる。盗賊としての経験から、間取りを立体的に想像することは得意だった。その時閃光のように頭をよぎるものがあって、彼は足で床を鳴らした。
「あるだろ、ここだ」
「え? ……ああ、地下か!」
同じく閃いたサイラスが目を輝かせる。
「地下には閉鎖されたラッセルの研究室がある。そうだ、アレフ氏はもとはラッセルになついていたんだよ。彼がいなくなってから学院全体で面倒を見るようになったんだ。あそこなら実験用の精霊石が残っていてもおかしくない」
猫は地下にこもってぬくぬくと暖を取り、精霊石の粉であたたまりながら食料を探しに来たというわけだ。なかなか賢いではないか。
視線を合わせてうなずきあった二人は、早速学院を出て階段を降り、地下研究室に向かった。
テリオンは学院に入学してからこの付近に近づいたことがなかった。入り口は板で封鎖されているわけではなく、鍵がかかっているだけだ。この程度の錠前はなんてことはない。持ち歩いていた道具をローブの内側から取り出して使えば、あっという間に鍵が外れた。
横からサイラスがその手際を覗き込む。
「キミの鍵開け、久々に見たよ。さすがだね」
「見せる機会もなかったからな」
すぐに道具をしまいこんだ。サイラスが何か言いたそうにしている気配を感じる。が、テリオンは視線を振り切るようにドアノブに手をかけた。
今の自分はあくまで学者見習いなのだと言い聞かせる。盗賊に戻るのは、サイラスにここに来た目的を明かす時だ。
扉を開けると、真正面から凍てついた風が吹き込んだ。
2
テリオンは反射的に扉を閉じそうになった。あまりの冷気に、不可抗力で体が震え上がる。
「……暖は取れなさそうだな」
どういうわけか、地下室の方が外よりも寒いではないか。
「お、おかしいな。精霊石がなくとも地下は安定した気温のはず……」
サイラスが首をかしげながら取り出した角灯が内部を照らす。すると、床で何かが光った。テリオンは目を剥いた。
「おい、氷があるぞ」
「なんだって?」
サイラスが扉の中に踏み込み、しゃがんで透明なそれに触れる。
「……本当だ。どうなっているんだろう」
「これがアトラスダムの寒さの大元なんじゃないか?」
続いて地下室に入ったテリオンが適当なことを言えば、サイラスは首を振った。
「いや、この異常な冷気には別の要因があるはずだ」
角灯を掲げた彼は決意に満ちた表情でテリオンを振り返る。中を探索する気満々らしい。一応忠告はしておいた。
「寒いなら猫はいないかもしれんぞ」
「それでも、ここを放置しておけないよ」
テリオンはため息をついて覚悟を決めた。さすがに杖は持ち歩いていないが、使い慣れた短剣をローブの下に備えている。サイラスは魔導書を取り出した。たまたま鞄に入っていたらしい。
地下は広い空洞になっていた。ところどころに岩が隆起している入り組んだ地形だ。今のところ魔物の気配はない。
氷で足を滑らせないようそろりそろりと歩を運べば、サイラスが白い吐息とともに硬い声を出した。
「今朝、属性のバランスの話をしただろう」
「ああ」
「ここではそれが大幅に崩れているのかもしれない。以前この地下室にはファイアウィスプとアイスウィスプの両方が生息していた。つまり、火と氷の属性が釣り合っている状態だ。だが、もしも外の寒波の影響を受けたとしたら……」
サイラスはそれ以上言わなかった。テリオンの背中を嫌な汗が流れる。
ラッセルの元研究室は洞窟の最奥にある。寒さで固まる足をどうにか動かし、やっと半ばまで道のりを進んだ時だった。
「いた、アレフ氏だ!」
サイラスが角灯で道の先を照らした。地面に白い猫がうずくまっている。駆け寄った彼が抱えあげると、猫はどうにか呼吸しているようだった。
その時、周囲に一段とひやりとした空気が漂った。
「……テリオン」
サイラスが猫を鞄に押し込み、そっと魔導書を広げる。テリオンは即座に短剣を抜いた。
気づけば二人は青い炎のような魔物に囲まれていた。相手には目玉もないのに、こちらをにらんでいると分かる。
サイラスが低く解説した。
「アイスウィスプ……火と光による攻撃が有効だ」
彼の「予習」がどうやって培われたのか、今のテリオンには理解できる。学院では魔物の生態についての授業もあり、テリオンは旅をしていた時よりも多くの知識を身につけていた。実際に魔物と渡り合ったことがある分、彼にとっては他の生徒よりも有利な分野である。肌感覚で知っていた敵の弱点を理屈と紐づけて覚えるのは、不思議な気分だった。
ウィスプには実体がないので直接攻撃は効かない。万が一、別種の魔物が出現した時に備えて短剣は構えたまま、テリオンはサイラスと背中合わせになる。
「火炎よ、焼き尽くせ!」
サイラスの声が高らかに響き、中空に炎が巻き起こった。燃え上がる魔力がウィスプに襲いかかり、魔物は甲高い音とともに蒸気に還る。
だが白いもやが晴れた時、そこには別の魔物が残っていた。ウィスプとそっくりの青い姿だが、より大きくて不気味に光っている。
「エレメント!? ここにはいなかったはずでは……」
驚くサイラスの声を背中で聞きながら、テリオンは正面に手をかざした。アイスエレメントは火と雷が弱点だ。
「雷鳴よ、轟き響け」
水平に放たれた光が雷音とともに魔物たちを貫いた。トレサがいたら文句を言われていただろう。上下に二分割された魔物を見ながら、テリオンはかじかんだ指に息を吹きかける。炎の大魔法を使えたら、攻撃のついでに温度を保てるのだが。
二度の魔法を受けても敵の数は一向に減らなかった。音で気づかれたのか、あたりには地下室中の敵が集まっているようだ。以前ここにいたという魔導機は見当たらず、自然繁殖したエレメントの群れが押し寄せる。
最前列にいたエレメントが一瞬まばゆく光ったかと思うと、氷の魔力を放った。テリオンは地面から突き出した氷柱をサイドステップで軽やかに避け、サイラスが炎で迎撃した。その度に蒸気が発生して視界が悪くなる。
とにかく四方八方から攻撃される状況は不利だ。テリオンは再度雷の大魔法を放ち、敵の包囲に穴を開けた。作戦を悟ったサイラスとともに抜け出そうとしたが、彼が「うわっ」と言って足を滑らせかけたので、すばやく反転してその膝に片腕を差し入れ、反対の手でローブの背中を支えて抱え上げる。サイラスは上背がある割に軽かった。
「す、すまないね」
「いいからあんたは対策を考えろ。どうも雷は効きが悪いらしい」
場に漂う属性の力が氷に偏っているためか、炎の威力すら落ちているように感じられた。気まずそうな表情を消したサイラスはおとなしく思索に集中することにしたらしく、テリオンにしがみついて黙り込んだ。テリオンは背後から襲ってくる氷の礫を避けながら、入り口に引き返していく。
が、闇雲に走ったせいで道を間違えたのだろう。たどり着いた先は行き止まりだった。サイラスをおろして舌打ちする。準備不足のまま地下に来たことが悔やまれた。
「テリオン、少し時間をくれ!」
サイラスが叫び、自分の胸に手を当てる。久々に見る動作だ。テリオンは意図を察して、盾となるべく魔物たちの前に立ちはだかる。
追ってきたエレメントが地面から突き出した氷の槍を、避けずに無理やり短剣で割った。じんと手がしびれる。
その時、サイラスの体が光に包まれた。学者の黒いローブが、緑と赤を基調とした長いマントへと切り替わる。
それは魔大公の祠で授かった特別な力――魔術師のジョブだ。失われた守護神の力を得たサイラスが古代の言語を放つ。
「Ardere Ignis!」
周囲に三度、爆炎が巻き起こった。一回一回の威力がテリオンの放つ炎の倍はあるだろう、ここまで火の粉が飛んでくる。放たれた熱のおかげでかじかんだ指先が動くようになった。炎は迫りくる氷をあっさりと押し返し、エレメントたちの体を飲み込む。
蒸気が晴れると、魔物の数はかなり減っていた。だが、まだ正面突破するのは難しいだろう。二人は後ずさりした。
「キリがないね……」
「諦めるのか?」
「まさか」
サイラスは疲れた顔に笑みを閃かせた。こんな町中で戦闘になるとは思っていなかったので、回復薬の手持ちはない。魔術師のジョブが操る力は本物の魔法であり、学者の技よりもずっと消耗が激しいはずだ。テリオンはとんとサイラスの背中に手を置いて、余った魔力を明け渡す。
「ありがとう。私は少し休憩するよ」
「分かった」
ならばこちらの出番か。テリオンはサイラスを岩陰に押し込んでから、エレメントたちの注意をひくように雷を放った。そして魔物に向かって一直線に走り出す。
駆けていく彼のすぐ背後を、氷の柱が次々と貫いた。テリオンは白い息を吐きながら集中する。ごつごつした岩を足がかりにジャンプして、残りのエレメントがすべて射程に入る高台に陣取った。
テリオンは短剣を目の前にかざし、己の守護神の名を呼んだ。
「盗公子エベルよ……!」
声が盗賊の奥義を解き放つ。見えない刃は属性相性など関係なくエレメントを切り刻んだ。
細切れになった魔物が形を保てなくなると、あたりにはもうもうと白い煙が漂った。まだいくらか残っているだろうな、と思いながら高台から降りて、サイラスのもとに戻ろうとする。
突然、ほおがひやりとした。ぞっとするような冷気がすぐそこに迫っていた。
「テリオンっ!」
叫びとともに、目の前に何かが覆いかぶさってきた。黒く塗りつぶされた視界の向こうで、ぱきぱきと氷が音を立てる。
「サイラス……!」
煙幕の向こうからエレメントが氷結魔法を放ったのだ。そこらじゅうに氷の属性が漂っているせいで、エレメントの気配と区別がつかずに油断した。テリオンをかばって半身が凍りついたサイラスが地面に崩れ落ちる。
かっと頭に血が上った。気がつけばテリオンは反射的に大魔法の詠唱をはじめていた。
「火炎よ――」
その刹那、膝をつくサイラスを見て冷静さを取り戻す。テリオンはエレメントをまっすぐに見据え、言葉を紡いだ。
「焼き尽くせ!」
生み出された炎は敵めがけて飛び、その体を溶かした。二度目の火は――行く先を変えてサイラスに向かう。学者は驚いてまぶたをつむった。
「わっ……あ、あたたかい?」
彼はぱちぱちと瞬きした。それがテリオンの狙いだった。あえて二度目の炎を散らせばいいと考えたのだ。案の定、程よく威力が弱まった炎は、サイラスに張り付いた氷を溶かした。
残った破片をはたき落としたサイラスは、少し青くなった唇を動かして分析する。
「なるほど、大魔法にこんな使い方があったのか」
「あとは任せたぞ、学者先生」
今までの攻防で数を減らしたエレメントは、残り五体だ。テリオンの隣に並び立ち、サイラスはふっと笑った。いつだってその表情に頼もしさを覚えたものだ。
「魔大公ドライサングよ!」
不可視の魔力が天から舞い落りる。それを受け止めたサイラスは、魔力のみなぎる瞳を光らせた。
「テリオン、息を合わせてくれ」
「ああ!」
彼は魔導書を持った腕を前に出し、テリオンに見せるようにあるページを広げた。こんな時でも教師らしく指示するのだなと思いながら、テリオンは本の上に手を置いた。示されたのは炎の大魔法だった。
言語の異なる詠唱が重なった。混じり合い、より大きくなった二つの炎は最後のエレメントをすっぽり飲み込んだ。後には焦げた地面が残る。
「……はは、威力が強すぎたね」
サイラスが肩の力を抜く。その頭にぽつりと水が落ちた。洞窟の内部を覆っていた氷が溶け、雨となって降ってきたのだ。サイラスは魔術師の姿から元に戻る。その黒ローブも、テリオンのものと同じように濡れていった。
戦闘のおかげですっかり体があたたまった。テリオンは短剣を鞘にしまい、サイラスに向き直った。
「怪我は?」
「大したことはない。今、キミの分も含めて回復魔法で治すよ。アレフ氏も無事だ」
彼はローブの前を開けて、中から鞄を取り出した。ずっとふところにしまわれていた猫は、なんとのんきに寝ていた。続けてサイラスは白い神官衣装をまとい、癒やしの力を振りまいた。
「さあ、地上に戻ろうか」
見慣れた黒色になった彼は晴れやかな顔をしていた。
テリオンはちらりと自分の手のひらを見る。最後に勢いのまま使った大魔法には手応えがあった。あの感覚を忘れないように練習を繰り返せば、なんとか試験に間に合いそうだ。
二人は帰路についた。一息ついたテリオンは、文句を言いたい気分でサイラスが抱える猫をにらむ。
「それにしても、なんでこんな寒い場所に猫がいたんだ?」
学者は苦笑し、そっと猫の頭をなでる。
「おそらく最初はここまで寒くなかったのだろう。アレフ氏が炎の精霊石を削って粉末を持ち出すことでバランスが崩れ、一気に氷属性に傾いたのではないのかな。何も知らないアレフ氏が食料を持って地上から帰ってきたら、ウィスプがエレメントにまで育ってしまっていた……という筋書きだろう」
「つまり、こいつの自業自得か」
白い背中をつつけば、猫は迷惑そうにあくびをして目を覚ました。
――ふと、テリオンは足を止めた。
「水の音がするな」
どこからともなく流水音が聞こえる。行きはまるで気づかなかったのだが。
「この地下室のさらに下には、アトラスダムの堀の水が流れているんだ。以前ラッセルが言っていたよ」
サイラスが平然と説明した。それにしては妙に水の気配が近いな、とテリオンが頭の隅で考えながら足を出した時。
ぴしりと嫌な音が鳴り、地面にひびが入る。
「え?」
逃げる暇もなく足元が崩れ落ち、二人の体は空中に投げ出された。その下は――流水だった。
度重なる魔法の乱舞で足場が弱っていたのだろう。おまけに氷が急に溶けて、地面が緩んだのか。
そんなことを考えている間に、サイラスの手からするりと抜け出した猫が、崩れる地面を器用にジャンプで渡っていった。
テリオンは落ちながら必死に手を伸ばし――サイラスの袖を掴んだ。
「秀才もまた、いくら努力しようと天才の高みには届かない。あなたも理解しているはず――天才であれば!」
木漏れ日の降り注ぐ遺跡で、インク色の髪を持つ女がそう言い放ったことを、テリオンはよく覚えている。
サイラスが辺獄の書を追い求めた末にたどり着いたダスクバロウの外れでは、ルシアという黒幕が待ち構えていた。そして二人の学者は、テリオンたち仲間の前で問答をはじめたのだ。
ルシアの発言に対し、サイラスは「天才や秀才という言葉で人を区別するな」と静かに怒っていた。正しく教え導けば生徒たちは自分よりも先に進んでくれるはずだ、と。
テリオンはあの会話を真の意味で理解することはできなかった。冷静にルシアに反論するサイラスが、まるで自分とは別の場所にいるように思えた。サイラスは、おそらく一度「高み」を見た上で、そこから降りて教師として発言している。
そのサイラス本人から「学者に向いている」と認められても、それを得難い言葉として受け止めていても、テリオンは学者ではないし、サイラスの考えをすべて理解することはできないのだろう。ルシアとは別の意味で、彼の話し相手にはなれないのだ。その事実が胸に迫り、テリオンはひそかに動揺した。
そもそも、サイラスの隣に並び立てる人物などいるのだろうか。生徒に勉強を教えてもいずれ追い越されるとすると、いつまで経っても彼の横には誰もいない。テリオンは、サイラスがむしろそれを望んでいるように見えたことが気にかかった。
サイラス・オルブライトは、これから先もずっと一人で生きていこうとしている。
「なんとかしてその隣に立ちたい」――これがテリオンが最初に自覚した、仲間という枠を踏み越えたサイラスへの思いだった。
だからテリオンは旅が終わった後、彼の家を訪ねた。いつかサイラス自身を盗み出し、学者であり盗賊でもある自分が目の前にいることを伝えるために。
耳の近くでごうごうと水音が鳴っている。
徐々にまぶたが開く。テリオンは全身濡れネズミの状態で倒れていた。体の芯まで冷え切っているが、降り注ぐ日光が体をかろうじてあたためている。
彼がいるのは小石の並んだ川べりだった。体を起こせば、アトラスダムの城壁が遠くに見える。確か、あの堀の水はフロストランド方面から流れる川より補給され、地下を通って排水される。つまり、テリオンはその排水ルートを流されてきたということか。
いつの間にか髪紐が切れたらしく、長い襟足が首筋に張り付いて気色悪い。彼は濡れた髪を手で絞った。
そこではっとした。
「サイラス……!?」
見回せば、学者はすぐ近くにうつ伏せで倒れていた。慌てて駆け寄り、仰向けに寝かせる。意識を失っているようだ。いつもより白くなったほおに触れた時、頭に雷鳴が鳴り響く。
サイラスが息をしていない。
血の気が引いた。だが、授業で思考に慣れた頭はショックを受けると同時に、やるべきことを必死に考えていた。
以前、こういう時の対処法をアーフェンから教わった。強制的に他人を呼吸させる方法だ。
もうなりふり構っていられなかった。サイラスの濡れたローブの前を開け、あごを上に向けて気道を確保する。その青ざめて薄く開いた唇に、テリオンは躊躇なく自分の口を押し当て、息を吹き込んだ。
それと同時に、魔力も送り込む。少しでも意識を覚ます助けになればとの一心だった。
「……ん」
サイラスの声が聞こえた気がした。テリオンは逸る気持ちを抑え、何度か息を送ってから、胸のあたりを両手で圧迫した。
「げほっ」
サイラスが水を吐いた。次いで、激しい呼吸を繰り返す。それは蘇生の合図でもあった。テリオンの胸にどっと安堵が押し寄せる。
そこでふと我に返り、自分の唇に触れた。先ほどの冷たい感触ははっきりと思い出せたが――
(……これは勘定に入れたくないな)
いずれ、意識がある時にサイラスの了承を得て盗むべきものだ。
やや動揺をおさめたテリオンが固唾をのんで見守る中、サイラスがうっすら目を開けた。
「おい、生きてるか」
声をかけながら肩を叩くと、サイラスはのろのろとまばたきする。
「なんとか、ね……」
かすれた返事だった。一度は半身が凍った上に溺死しかけて、魔力の消耗も激しいはず。ここはテリオンが動く番だ。
「ちょっと休んだら、日が落ちる前に町に戻るぞ。あんたを薬師のところに連れて行く」
「それがいいね……」
ぐったりしているサイラスを助け起こし、濡れそぼったローブを脱がせた。まだ太陽は山の端よりも上にあるので、なんとか体温は保つだろう。テリオンはサイラスのそばを離れて近くの木立から枯れた葉や枝を集めた。その途中、川の下流でサイラスの鞄を発見したので持って帰る。
サイラスのそばに戻った彼は川辺の小石の上に枝葉を置き、少し考えてから詠唱した。
「火炎よ、焼き尽くせ」
あれほど大魔法の扱いに悩んだ時間は一体なんだったのだろう。あっさりと二回分、威力の変わらない炎が出た。
そうやってつくった焚き火の前に二人のローブを並べて、乾かすことにした。サイラスは力なく地面に座り込み、焚き火を見つめる。
「アレフ氏が無事だといいのだが……」
「あいつ、図太いし大丈夫だろ。俺たちより大変な目にあってるとは思えん」
今頃しれっと町に戻ってるんじゃないか、と言い添えると、サイラスは力なく笑ってから、炎に手をかざす。
「見事な炎だね」
「あんたのおかげでコツが掴めた」
サイラスはぱっと目を輝かせる。生徒が良い答えを出した時、いつもこういう表情になるのだ。
「怪我の功名というやつだね。気分転換もなかなか良かっただろう?」
「そう言うにはまだ早いんじゃないか」
「確かに……」
サイラスは大真面目な顔でうなずき、鞄を引き寄せる。彼の鞄は防水素材でできていた。旅をしていた頃、何度かアクシデントで濡れることがあったので、特別にあつらえたという。中身は無事だったようで、「重要なものを入れてなくてよかったよ」と彼は笑っていた。
「そうだ、テリオン。これを使うといい」
突然、サイラスが巾着袋を渡してきた。受け取って中身を見る。
「……髪紐か?」
紫の細い糸が複雑に編み込まれた、凝った意匠だ。男性が使ってもおかしくないデザインである。
「川でなくしたのだろう? 今日付き合ってくれたお詫びのようなものだ。受け取ってくれ」
まさか、予備でも持ち歩いていたのか。それにしてはしっかりした袋に入っていたが。
「詫びというなら、猫探しを依頼してきた生徒からもらいたいがな」
「お礼はキミの分も頼んでおくよ」
いつもの調子で答えたサイラスに対し、テリオンは軽く息を吐き、ありがたく紐を使わせてもらうことにした。伸びた後ろ髪を結べば、首元がすっきりする。
サイラスは目を細めてその様子を眺めていた。
「あ、アレフだー!」
「アレフも晩餐会行こうよ。どう?」
学院の廊下で女生徒たちが集まり、しゃがんで床を見ている。その中心に白いしっぽが揺れるのを認めて、テリオンはふんと鼻を鳴らした。
冬休み前の最後の試験が終わった。これからあの生徒たちは奉火祭の晩餐会に参加するのだろう。一方、テリオンは教材を抱えてまっすぐに家路を目指していた。
廊下の先でまたもや女子に取り囲まれているのは、つややかな黒髪を持つ男性だ。
「サイラス先生、今年も晩餐会には行かないのですか……?」
「すまないね、用事があるんだよ」
彼は笑顔で手を振って相手を落胆させた。相変わらずだなと思ってテリオンが遠巻きに見ていると、サイラスがこちらを発見してまっすぐ近づいてくる。どこか嬉しそうな顔だ。
「テリオン、ちょっといいかな?」
「……ああ」
テリオンは未練がましい目を向ける女子生徒に一瞥をくれてから、サイラスの隣を歩き出した。少しだけ気分がいい。
「で、用事ってなんだ」
「キミの試験のお祝いに、酒場で飲まないかい?」
テリオンは瞬きして、思わず周囲を確認する。幸いそばに他の生徒はいなかった。
「まだ点数も返ってきてないだろ」
「キミなら及第点は確実さ」
サイラスがやけに自信満々に答えるので、嫌な予感がした。
「……答案を見たのか?」今回の試験監督はサイラスではなかったのだが。
「まさか。筆記は心配していない。実技の試験をこっそり見学したんだよ」
試験は中庭で行われたから、学院の廊下から丸見えだ。しかしさすがのテリオンも試験に集中していたので、サイラスの視線には気づかなかった。
テリオンは一度大魔法のコツを掴んでから練習を重ねた結果、問題なく火炎を使えるようになった。試験でも普段どおりに発動できたし、あれならまず落第はないだろうと胸をなでおろしていたところだ。
サイラスも試験の結果が気になっていたのだろう。テリオンは沸き立つ思いを押し隠して答える。
「酒なら付き合ってやってもいいぞ」
「そうか」
返事を聞いたサイラスは掛け値なしの笑顔を浮かべる。その意図はどうあれ、テリオンにとってはありがたい誘いだ。こうして二人で飲むのも久しぶりだった。
その時テリオンはあることを思い出し、ふところから巾着を取り出した。
「これ、返す」
猫探しをした挙げ句川に落ちたあの日、サイラスに渡された髪紐だ。今のテリオンは別の紐で髪をくくっていた。
すると、サイラスは目を泳がせた。
「それはキミにあげるよ。もともとそのつもりだったんだ」
「は?」
意味が分からず目を丸くする。サイラスは珍しく言葉を濁し、伏し目がちに続けた。
「その……奉火祭ではプレゼントを渡すものだろう? キミにはいつも世話になっているからね」
どういうことだ。サイラスは、わざわざ期日よりも早めに贈り物を用意して、常に持ち歩いていたのか。もしやテリオンに渡すタイミングを計るために?
テリオンは生まれてこの方、他人からプレゼントなど受け取ったことがない。だからどういう反応をすればいいのか分からなかった。これは一方的にもらうものではない、ということだけは知っている。
「……俺は何も用意してないぞ」
「私が勝手に押し付けただけだから、お返しは構わないよ」
「それじゃ俺の気がおさまらん」
いわれのない好意に疑問を覚え、テリオンはじっと相手を見つめた。サイラスはぼんやりした顔で何故か自分の唇に触れてから、慌てたように表情を取り繕う。
「キミは学者に向いている、とダスクバロウの遺跡で言っただろう。キミがあれを覚えていてくれたことが……嬉しかったんだ。今更だが、ただそれを伝えたくてね。
だから、今晩は私の話し相手になってくれないかな」
「……分かった」
テリオンは少し表情を緩め、うなずいた。思わぬ拾いものをした気分だった。酒場に行く前に下宿に荷物を置いたら、ついでに髪紐を取り替えてこようか。
窓の外は薄暗くなり、また雪がちらついている。今晩はきっとテリオンにとって特別な時間になるだろう。
隣を歩きながらも、二人はまだ手も触れない関係だ。だが、テリオンは当初の目的を半分ほどは達成できた。真面目に授業を受け続けた結果、サイラスの話し相手に選んでもらえたのだ。
寒さでうっすらとほおを赤くしたサイラスを横目で眺める。テリオンはあと少しの距離を詰めるため、まだ見ぬ春の訪れを待っていた。