だめだと言うので待ってみた話


 仲間曰く、旅が長くなると宿が恋しくなるという。屋根のあるところで寝られたならそれでいい、人に邪魔されず熟睡できればそれがいいと生きてきたテリオンにとって、それは少し贅沢にも聞こえる願いだ。
 一方で、戦闘に慣れ、それなりに戦う術と逃げる体力をつけた今、彼もまた宿で過ごすことのほうが増えており、宿に入れば多少気が緩むことも理解していた。酒の席で、アーフェンと酔い潰れたのがいい思い出だ。プリムロゼもいたし、他の仲間も近くで飲んでいた。知り合い以上の繋がりを持つ人間がその場にいる──それだけのことが、これほどまで自分の気を楽にするとは知らなかった。
 おそらく、大抵の人間ならそうだろう。知人がいるだけで見知らぬ場所ではなくなるし、仲間がいれば頼もしく、ましてや恋人となれば違う場所でも気分は変わるはずだ。
「……今夜じゃないとダメかな?」
 寝台の上、腰掛けたサイラスにいつものようにキスをして睦事(むつごと)の許可を無言で得ようとしたとき、彼はすっきりとした顔でそうのたまった。
「……」
 思わず無言で見つめ返したのは、今日が久しぶりの宿であり、到着までの戦闘は少なく、道中の疲れもほとんどないという類まれなる幸運によりあらゆる下準備を済ませてきた後だったからだ。
 潤滑油も、なんなら避妊の道具もしっかり揃えてきたし、ここグランポートの宿は水洗設備もそれなりに整っているので湯も出せる。シーツは金を払えば替えてくれるそうであるし、これほどまでに片付けが楽な宿はそうそうない。
「一応聞くが、明日ならいいとかそういう話だよな?」
 溜息を吐いたところで、この男の気が変わるわけでもない。頬をつまむように撫で、前髪の先を指に絡めた。
 サイラスは僅かに視線を落としたものの、すぐにテリオンを見上げた。
「グランポートにいる間は控えたい。ダメかな?」
「……駄目じゃない」
 同意がなければそもそもするわけにもいかない。名残惜しく口付けた後、隣に腰を落ち着けた。
「理由は何だ」
「いつも宿に泊まると性行為に及ぶだろう? キミも私も宿で休むことは貴重であるし、キミとの行為が大事であることも分かっているよ。けれど、毎度共に過ごさないといけないほど、幼稚な関係でもないだろう」
 笑顔にも見える表情でサイラスはベッドを軋ませ近寄ると、テリオンの肩に自分の肩を寄せた。
「嫌だから断っているのではなく、少しだけ、互いに自由な時間を増やしてはどうかな、と思った。キミもしばらく飲んでないだろう?」
「翌日飲んでる」
「毎度そうとも限らないようだけど」
「……はあ」
 確かに、宿に泊まるたびサイラスとの閨事に意識を払って、飲みをそれとなく抜けて来ることも多かった。それは彼との夜の時間を優先しているからなのだが、サイラスの方はあまりに優先されて気になるのだろう。
 もう少しテリオン自身の時間も大切にしろと言いたいのだ。
「そうだな。あんたの言うことには一理ある」
「だろう? じゃあそういうことで……」
「それはいいが、なら……次はいつにする? 道具もあんたに持ってもらった方が助かる」
 嬉々として話を終わらせんとするサイラスに畳み掛ける。彼の話を聞いたのだから、彼もまたテリオンの話を聞くべきだろう。盗み、あるいは購入した物を手のひらに載せてやる。道具の準備をするのは、それ以外の負担がサイラスの方にかかるからだが、このときは意地悪く見せびらかした。
 納得したが、今夜抱くことを楽しみにしていたのも本当だった。
「わかった。じゃあこれらは私が持っておくとして、……そうだね。私が断ったのだから、次は私から誘うよ。急に誘うことはしないので、安心してくれ」
「……いいだろう」
 これは、どう言っても動かないな。諦めのついたテリオンは大人しく自分のベッドに戻り、寝転んだ。
(どんなふうに誘われるやら)
 あまり期待しないでおこうと、目蓋を閉ざす。
 
 何もしないまま三日が過ぎ、一行はグランポートを後にした。
 次にたどり着いたのはゴールドショアだったが、ここでの用事はもうないがために宿は一泊だけとなった。
 目指すはプリムロゼの目的地エバーホルドであり、そこまでの道筋を考えればあと三回ほどは宿に泊まることになる。
 ゴールドショアに着いた初日、テリオンはいつもの癖で先に宿の鍵を預かった。もう一つをアーフェンかオルベリクに渡しておけば、必然的にサイラスと相部屋になる。仲間達に関係性の変化について明かしてはいないが、女性陣には悟られているようで、サイラスと二人寝坊しようが何か言われることも少なくなっていた。
 さて、サイラスはどう出てくるか。チラと後方を見やったが、彼はオルベリクと何やら話しているだ。仲間達が連れ立って歩き始める中、アーフェンを呼ぶ。
「失くすなよ」
「おう、ありがとな」
 鍵を投げて寄越し、後に続いた。
 酒場では男女四人ずつ、テーブル席に着いた。食事は可能な限りで共有し、酒を楽しむ。
「まだ飲むかい?」
「ああ」
 訊ねられたので、空になったグラスを見せた。
 彼は四人分の酒を追加すると、一つだけ片手に持ち、空いたカウンターの席へ移る。燭台の明かりに最も近い場所で本を開き、読み始める。
「すっかり酒場の読書に慣れたな」
「……そうだな」
 オルベリクの苦笑につき合い、エールを飲む。
(今夜もナシか)
 急に誘いはしないと言ったから、今夜は何もしないのだろう。読書に耽るのならなかなか動かぬだろうし、ならば、存分に飲ませてもらうかとテリオンはいつもより早いペースでエールを飲んだ。
 腹が膨れたあたりで満足し、テーブルに突っ伏したアーフェンを頬杖ついて見守る。
「……誰が運ぶんだ」
「フフ、俺がやろう」
 飲み比べほどではないにしろ、オルベリクも随分と飲んだらしい。二人してテーブルを去るので、テリオンもそれに続こうと女性陣に声を掛ける。
「先に戻る。何かあれば学者先生に言え」
「そうね。見張っておくわ」
 プリムロゼが答える時は決まってテリオンたち男性に聞かれたくない話題の時なので、さっさと離れた。
 脚を引き摺るアーフェンを手伝い、オルベリクと共に宿へ戻ると上衣も脱がずにベッドに入る。眠気がそこまできていた。
 ──よく寝た。目覚めたときには窓から日差しが射し込んでおり、テリオンはかすかに痛む頭を起こした。
 隣のベッドはきちんと畳まれていて、荷物も見当たらなかった。そこまで寝たかと慌てて部屋を出てみれば、ロビーにはサイラスの他、トレサとオフィーリアの二人がいるだけだった。
「あっ、おはよう!」
「おはようございます、テリオンさん」
「……元気そうだな」
 トレサの声が二日酔いで痛む頭に響き、つい睨むように見てしまう。
「おはよう。水なら用意してもらったよ」
 サイラスの腰掛けるソファの手すりにもたれ、グラスを受け取る。水を飲みながら、起きてくる仲間たちを待つ。
 なにとはなしにサイラスを上から眺めたが、特に変わった様子は見られない。目にくまもないようだし、テリオンが戻ったあと、ちゃんと戻ってきたのだろう。昨日は先に寝て正解だった。
 朝食を済ませ、旅立つ。
 エバーホルドまでは、いくつか町を経由せねばならない。ストーンガードに辿り着くまでに一晩野営となった。宿とは違う最悪の寝心地だったが、もはや慣れたもの。その昼には、無事に辿り着くことができた。
 夕食までは自由行動とし、皆、さっさと部屋へ入っていく。
 サイラスの後に続いて部屋へ入ったテリオンは、少し緊張を覚えた。嫌なものではなく、どちらかといえばこれは期待と呼ぶに相応しい。
 なぜなら、ここで一度補給を済ませてから行こうと二日以上の休息が予定されていたからだ。
「テリオン」
「なんだ」
「先程の戦闘での話だが、」
 しかし、その期待も秒で砕かれた。
 サイラスは連携するためにここはこうした方がいいだのああいう時はどうしたらいいかなどと質問するだけすると、
「では、食事に行こうか」
 と扉を開けて部屋を出ていく。
「……」
 取り残されるのも癪なので、扉が閉まる前に部屋を後にした。

 
 そんなことが続き、目的を果たしたプリムロゼが「故郷へ帰るわ」と言い出せるようになってからも、テリオンは指一本もサイラスに触れることができないでいた。
 戦闘で危ういことになれば引き寄せることもあったが、その程度。サイラスからなにかしら声を掛けようとする動きも端々で見られたものの、強くは出てこなかったのでテリオンの気のせいだろう。期待はしないと言いながら、なんやかんやで捨てきれないので己はまだ幼い。
 いや、本当のところ、意地になっていたのかもしれない。自分で誘うと言ったのだから、しっかり誘ってみろ、と。
 テリオンが静かに欲求不満を高めていく中、それでもサイラスは相変わらずだった。ノーブルコートに着き、皆でプリムロゼの背中を見送ってからも、彼は読書をすると言って一人だけ酒場に行くのを断った。
「先生、お腹空いちゃうわよ」
「携帯食があるから大丈夫だ。ゆっくりくつろぐといい」
 読書なら酒場ですればいいとも思ったが、彼はさっさと宿に戻ってしまった。
 オフィーリアが気遣うような目線を送るので、いつものことだ、と肩を竦めて置く。六人で連れ立って酒場まで向かい、旅の疲れを癒やす。
「テリオン」
 酔いが回って騒ぐオルベリクとアーフェンをハンイットがたしなめるのを眺めていると、遅れてやってきたサイラスが隣りに座ってきた。
「あんたの分はないぞ」
「それはさっき頼んだよ。ありがとう」
 酒も料理も六人で分け合ったので、皿はほぼ空だ。トレサとオフィーリアはプリムロゼを気にして酒場を出ていたし、残る三人はあの様子で、こちらのことを気にしてもいないだろう。
「……明日の夜はどうかな?」
 酒が運ばれてきて、テリオンの視線はグラスで遮られた。
「……なにが」
 寝かせていた期待がアルコールとともに全身を回って、一瞬で身体が熱を持つ。サイラスは勿体付けるように──いや、単に飲みたかったのだろうが──グラスの中の酒を一口飲むと、あっけらかんとした、しかしどこか晴れやかな顔で答える。
「キミとの性行為の話だ」
 ガタン、と勢いよく立ち上がった。
「ハンイット。あとは頼めるか」
「ん? ああ、まあ……このくらいなら」
「行くぞ」
「え、まだ頼んだばかりで──」
 ごちゃごちゃ言うサイラスの腕を掴んで引き寄せる。周りから見れば学者が絡まれたようにも見えたか、訝しげな視線を無視して宿を目指した。
「……テリオン?」
「明日まで待てるか」
「なにか言ったかい?」
 呟きは拾われなかったようで、部屋に入ってもまだサイラスは困惑の表情を浮かべていた。扉の鍵を後ろ手に閉めながら、クラバットを掴んで引く。何をするのかくらい、もう分かっているはずだ。
 一度触れただけで込み上げるものがあった。肩を掴んで固定し、押し返す手を無視して二度三度口付ける。
「……ふふ、くすぐったいよ」
「……呑気なことを」
「うわっ」
 頬を撫でると空気を読まず笑われたので、胸元をつかんでベッドに押し倒した。はずみで床に転がり落ちたのは、テリオンが渡した潤滑油の小瓶だ。改めて見れば、鞄の横にはきっちりと道具が揃えられている。
「ああ、それは、さっき準備に使ったんだ。キミに普段任せてばかりだったから、試してみたのだが、どうにも難しいものだね」
「ほう……」
 詳しく話を聞きたいところだが、今はそれよりすることがある。自由に動かされる手を掴んでベッドに押さえつける。
「随分と待たされた。……いいよな?」
「……いいよ、おいで」
 上からのしかかる形で問い、苦笑と共に許された。


 久しぶりの行為に励み、気分も爽快となったところで片付けを始める。最初の頃は動けなかったサイラスも、体力がついてきたか、行為を終えても目覚めていた。
「明日の予定だったのだが……」
「明日もいいんだろうな」
「なるほど、そうきたか」
 なるほどでもなんでもないが、笑って許されたので小言は止めておく。
 服を着て隣に座ると、服の前開きを留めながらサイラスが話し始める。
「そういえば、随分待たされたと言っていたけれど、避けていたのはキミだろう?テリオン」
「……」
「途中でキミに伝わってないと気付いたから良かったものの、性行為の誘いというのはなかなか難しいものだね。キミが多少強引な手に出る理由が、少しだけ分かったよ」
「……何を言っている?」
 水筒の水を飲んでから、冷静さを意識して問いかけた。
 誘われていたらしいが、心当たりは一つもない。
 だが、サイラスの方は違うらしい。まだ酒を飲むのかと聞けば、飲むというので待っていたのだとか、他の仲間にもそれとなく頼んで部屋を同室にしてもらい、日中に、少し時間はあるかと聞けば、ない、と言われただとか。
 テリオンなら軽く行うただの触れ合いも、いちいち確認を取っていたらしい。それは分からないし、聞かれているのだとも思わなかった。
「……はっきり言えばよかっただろ」
「往来でそんなことは言えないよ……」
 忘れがちだが、彼の見た目は目立つし、学者のローブもそれなりに目を引く代物だ。さもありなんと理解して、まだなにか語る彼の肩を押し、ベッドに横たわる。
「このままここで寝るのかな」
「寝る」
「わかった」
 長い腕が伸びて、蝋燭の火をつまみ消す。そのままその手がテリオンの髪に触れ、軽く、頭を引き寄せられた。
「久しぶりだ」
「……そうだな」
 事実を実感しただけなのかもしれないが、それが彼なりの「こうしたかった」にも聞こえたので、大人しく身体を寄せて眠りに落ちた。