ray of shine

目を覚ますと見慣れない天井があった。
隣のベッドではアグネアが気持ちよさそうな寝息を立てている。 起き上がれば、仲間のうち寝ているのは彼女のほか学者と商人が寝ているだけで、他のベッドは空だ。
紅茶の香りが漂う。靴を履き、服を整え、化粧台の前へ。
ほどなくしてソローネはいつもの顔でロビーに顔を出した。一席設けられた円卓にはテメノスが腰掛けている。
「よく眠れましたか?」
「……まあね」
「それは良かった」
彼の返答を深読みするべきかを迷い、ソローネは壁に添えた指先にわずかに力を込めた。
──昨晩、ソローネが殺した『母』へ、彼は短く聖火神の祈りを唱えた。
教皇を殺害した犯人を追う彼にとって、大事な人だと訴えられながらも殺した自分は、どう映っているのだろう。迷える子羊? それとも──考えようとして、止めた。そんなものは今更だ。
残る三人はどこだろう。ソローネがテメノスの紅茶を断ったところで、宿の扉が開いた。
「テメノス、オーシュットが呼んでいる」
「やれやれ……。今度は何を狩ってきたのやら」
空になった茶器をそのままに、テメノスは外へ。入れ替わるようにヒカリが中へ入り、ソローネに目を止めた。
「目覚めたか」
テメノスといい、何なのだろう。
「……キャスティは外だって聞いた。どうしたの」
「匂い袋の材料を採りに。オーシュットと採取に出かけて、帰ったばかりだ。もうじきここに戻るだろう」
「ふうん……」
「彼女がどうかしたか?」
今度はヒカリに訊き返される。時折妙に禍々しい気配を覗かせるが、平時のヒカリはいつだってこんな調子で、凪いだ海のように静かだ。
「……記憶がないって、どんな感じだろう」
二人が言うように、彼女(Castti) を探して視線を彷徨わせる。
昨日、寄り添ってくれた彼女の温もりが恋しかった。それが母の姿を求めるからなのか、一緒に旅をしましょうと誘ってくれた彼女に対する信頼や安心によるものなのか、自分の中でも自信がない。
彼女への興味のようなものを口にしているけれど、本当のところ、うまく言い表す言葉が思い浮かばなかっただけだ。
「私が記憶を失ったとして、……思い出したとして、キャスティみたいにはなれない」
人殺しの記憶を、代わり映えのない毎日に嫌気が差して、自由を求めるようになった空虚な記憶を思い出したところで、自分はなんてことをしたのかと後悔するだけだろう。いや、後悔すらないのかもしれない。一度忘れてしまったら、それはそれ、これはこれと切り分けてしまえるのかも。
「──そなたはそなただ。彼女ではない」
滔々と、脈絡のないことを語りだしたソローネの言葉を受けて、水面に波紋が広がるような穏やかさでヒカリが応える。
「それでも、そなたは踏み出した。思い出すたび、そなたの力となるはずだ」
淡々と告げられたのは彼にとっての事実だろう。それ以上でも以下でもない、彼なりの励ましだ。
そうだ。あの街から飛び出して、ここまで来た。
その時だった。宿の扉がそっと押し開かれる。空とも海とも呼べる柔らかな水色の服を着た、彼女が笑顔をのぞかせた。
「あら。おはよう、ソローネ。よく眠れたかしら? ……ヒカリくん、留守番ありがとう。何か変わったことはあった?」
「いや、なにも」
葉が髪に付いているとヒカリが示すと、キャスティはふふと戯けて払いのける。
「材料は揃ったのか」
「ええ、もちろん。これで夜眠るときも安心ね」
そう言ってカバンの中から取り出したのはサシェだった。
「余計な心配かもだけど……。香りで落ち着くこともあるというから」
「……ありがと」
温かな日差しの香り。春の穏やかな風の香り。──彼女のそばにいると感じる香りだ。
そのまま、キャスティの肩に顔を寄せる。
「どうしたの?」
「キャスティも同じ香りがする」
「作っている間に移ったのね」
部屋の奥から仲間の起きる声がした。
キャスティが朝食にしましょう、と声をかけ、ヒカリが応じて扉を開ける。
誘われるまま、二人に続いて扉を潜た。

眩しさに少し足を止め、刹那に迷いを振り切り、ソローネは日差しの下を歩き出したのだった。



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