
夢見る星は流れて出会う
いわゆる「キスしないと出られない部屋」ネタ。
テメキャス両片思いからの両思いです。
1、
旅の目的を果たしたあと。
カルディナを抑え、聖堂機関の悪事告発を終えたテメノスは、ストームヘイルで眠る友人の墓へそれぞれ報告に出向き、仲間と共にフレイムチャーチへ戻ることになった。
「そういえばさ」
歩きながら、ソローネが何気なく口にしたのは、素朴な話題だ。
「あの建物に隠し通路があったんなら、他にもありそうだね」
「……いい着眼点ですねえ、ソローネくん」
神官ギルドでは受付直ぐ側に聖火神への祈り場へ続く道があり、大聖堂にも地下道が用意されていた。
「やはり、探偵に向いているのでは? どうです? 副業としてやってみてもいいかもしれませんよ」
「ハハ、たまには考えてやってもいいかな」
首元のチョーカーが外れ、はじめは暗い顔をしていたソローネも今では穏やかに笑うことが増えた。
彼女はおそらく、事件解決より好奇心を理由に動く。だから探偵に、というのは提案というよりは、彼女に対してのヒントのつもりだった。
盗賊でもいいし、探偵でも良く、自由に先を進んでいけるなら何にだってなればいい。
そういう老爺心的な思いからの声かけだったが、時を経てそれはある意味でいい方向に動いたのだろう。
「ねえ、隠し通路、見つけたんだ。見てみない?」
よって、ソローネが宿へ戻るなり話しかけてきたときも、面白いですね、とテメノスは腰を上げた。たまたま外から帰ってきたアグネア、キャスティもつれて、四人で向かってしまったのである。
ソローネに案内されて向かったのは、クロップデール近くの洞窟だ。
シルティージの祭壇も地下にあるので、その類だろう。テメノスはキャスティの持つ角灯の明かりを頼りに道を遠目に眺め、ソローネとアグネアを振り返る。
「隨分と古いようですね。このあたりに遺跡があるという話は聞いたこともありませんが、……なにか知りませんか? アグネア」
「わたしもあんまり……ごめんね、テメノスさん」
「いえいえ。ではここは……なんのための場所なのでしょうね」
「先に行けば分かるんじゃないかしら」
肝の据わったキャスティが面白半分に先へ進もうとするので、その手を掴んで引き止める。
「危険ですよ」
「しっかりした道よ? 罠もなさそうだし……心配ならオーシュットとオズバルドも呼ぶ?」
駄々をこねる子供をたしなめるように答えると、キャスティはテメノスの肩越しに同性の仲間へ視線を送った。
「そうだね。呼ぼうかな」
「あ、あたしも呼んできます!」
引き止める間もなくソローネが軽く笑い、アグネアと連れ立って行ってしまう。
仕方なく、テメノスはキャスティの手を離し、周辺の探索を始めた。石やレンガを積み重ねて作ったというより、土を削り固めたような壁だ。石の敷き詰め方はティンバーレインと似ている。
暗がりに目を凝らしていると、おもむろに角灯が近くへ掲げられた。
「ありがとうございます」
「いいのよ。見えるかしら?」
「ええ」
彼女が照らしてくれたおかげで人の足跡を見つけた。不自然に途切れているものがあり、指先で付近を探るとかすかに風の流れを感じた。
ソローネが見つけた隠し通路だ。壁の向こう側に進むなら、彼女が戻ってきてからの方がいいだろう。
「どうしたの?」
「ここにも隠し扉があるようです。押せば開くのでしょう」
「そう。……なんだか不思議な場所ね」
キャスティが近くにあった土壁の窪みに角灯を置き、天井を見上げる。
「行き止まりのようにしか見えないけど……実は他にも扉があって、色んなところに繋がっていたりして」
「それはそれで、なぜそのような通路が用意されているのか疑問が浮かびますがね」
「そうね……貴族の屋敷の抜け道とか?」
「それまた随分と遠い」
貴族が住み暮らすとなるとクロップデールよりウェルグローブの方が可能性がある。だが、地図上でもこの場所からウェルグローブまではそれなりの距離があり、道を引くにしても現実的ではない。
「冗談よ」
ふふとキャスティがしとやかに笑ったのを最後に、沈黙が落ちる。
さしてそれを気にせず、テメノスは杖で壁を軽く叩き、反響する音を聞きながら壁の向こう側について考えて歩いた。さほど大きな空間でもないので、そのうちにキャスティの立つ場所まで辿り着く。
「ああ、どうぞ」
「どうも」
音が、変わる。ここにも別の空間が続いているらしい。
「テメノス?」
「ここにもあるようです。……いっそ全部押し開いてみましょうか」
「それはいいけど……」
軽く押すだけで長方形に壁が凹み、ガコンと音を立てて地面へ沈んでいく。現れたのは階段だ。
「……じゃあ、こっちは私が開けるわね」
先ほどテメノスが示した壁へ、キャスティが軽く体重を掛けて押す──壁が崩れ、彼女の身体がその中へ吸い込まれていくのを見て、テメノスは慌てて手を伸ばした。
引き留めきれず、そのまま落下する。
覚悟したような大きな衝撃はなく、キャスティは咄嗟に閉ざしていた瞼を押し開き、起き上がった。
「いたた……大丈夫だった? テメノス」
「ええまあ……」
柔らかい地面──ではなく古びたベッドの上に落ちたようで、それぞれ起き上がった。
部屋は冷たい石造りの壁に四方を囲まれ、どことなく聖堂機関の作りに似ていた。
扉は一つだけ。錠前があることから、鍵を挿せば開くことは見てわかるものの、肝心の鍵が見当たらない。
キャスティはふと扉枠の上に刻まれた文字に気付き、立ち上がった。
「ねえ、ここになにか書いてあるわ……」
テメノスは考え事をしているようで、こちらの声に気付かない。仕方なく先に読み──ふうん、とキャスティは首を傾げた。
「テメノス、テメノス?」
じっとベッドに腰掛けたまま考え事に耽っている彼は、多少呼びかけたところで気付かない。手を取ろうとしたが、動かせば気付いてしまうかも、と思い、キャスティは逡巡の末、彼の隣に膝をついた。
「……今、なにかしましたか?」
「あら、起きちゃった?」
「その態勢は、一体何です?」
「まあまあ、いいじゃない」
声は聞き入れないのに、こめかみにそっと触れただけで気付かれてしまった。若干寄りかかっていたので、そのせいかもしれない、とキャスティはサッと離れ、扉に向かう。鍵が開くかと期待したが、まだのようだ。
「……困ったわねえ」
「鍵が掛かっているようですね」
「そうなのよ。それで、……上にこう書いてあるの」
テメノスが隣に並び、キャスティに促されて戸枠を見上げる。
「……私の目には、キスをしたら出られる、と書いてありますが、あなたの目にも同じものが見えています?」
「ええ。それでさっきあなたにキスしてみたのだけど、開かないのよね」
頬に手を当てため息をついたあと、キャスティはごめんなさいね、とテメノスを見つめた。
「考え事をしている間に、試しておきたかったの。嫌だったわよね」
「……。……まあ、いいですよ。他にも書いてあるかもしれません、ひとまず部屋を調べましょう」
さっと背中を向けられて、苦笑した。いくら扉に書いてあるからと言って簡単に信用し過ぎだ、と呆れられたのだろう。
(……でも、ここに書いてあることが本当だったら、嫌だと思うのよね)
彼のように清廉さを好む人間は、たとえ部屋から出るためだとしてもキスなどしたくないだろう。
適切な順序を踏んでの行為ならまだしも、自分達はただの仲間でしかない。
(……ソローネとだったら、すぐ出られたのでしょうね)
彼に倣って室内を見てみる。薬瓶が端に置かれているが、これは中身がなく。引き出しを開けて見ても空だ。
不思議と埃っぽくないことだけがすくいで、ベッドも古びてこそいるがリネンは清潔のよう。──そういえば、どうしてこの大きなベッドが一つしかないのだろう。
「なにかわかった?」
「……いいえ」
ベッドに腰掛け、うろうろと室内を見て回るテメノスの後ろ姿を眺める。最終的に扉の前で文字を見上げて留まっているので、なんだか玄関で誰かを待っている犬のようにも思えた。
「ソローネ達が助けてくれるまで待つ? 水と、携帯食なら少しあるわ」
「それも手ですが、……どうして先程、試そうと思ったんです?」
テメノスがようやく振り返り、こちらへ戻ってくる。
隣に腰掛けたので、互いに顔を見合わせた。
「気付いてないなら、問題ないかと思って」
「……酷い人ですね。手を出されないよう気を付けなくては」
「そうでしょう? だから、早く出たほうがいいと思うわ」
その仕組みは謎だが、たかだかキス一つで外に出られるなら安いものだと思う。キスといっても手の甲だったり額だったり、場所の指定はないのだから、どこでも良いはずだ。それでも開かないのは、おそらく一般的なキスが求められているからだと推測はしているが。
「私はしてもいいのよ。あなたが嫌でないなら」
「……何を言っているんです?」
「え?」
早く出ないといけない、だからキスをしてもいい、とそう言ったつもりだ。キャスティが戸惑いを見せると、テメノスはこちらへ向き直り、真面目な顔で言う。
「出るためという名目でその身を差し出すんですか?」
「……どうしてあなたが怒っているのか、分からないわね。
私達は部屋から出たい、出るためにはあの扉を開けなくてはならなくて……ここで斧を振るったり魔法を放ったりすれば私達にも被害が出かねない。最善の策は大人しく書いてあることに従うことだと思うわ。ソローネもいないし」
「そうですか」
彼は何気ない素振りでキャスティの肩を押した。背中がベッドに沈む。
「それを理由にこのように迫られる可能性もあるはずです。発言には気を付けてください」
「……あなただから言ったのよ?」
「はあ……全く。勘弁してください」
(本当なのにね)
離れていくテメノスを見上げながら思う。
彼にとって、キャスティの持つ感情などただの信頼でしかない。分かっていたことなので苦笑一つで受け入れられた。
「これからどうするの?」
「……それを一緒に考えてもらえると助かります」
「分かった」
どうやらテメノスは戸枠に書いてあるだけのことに大人しく従うつもりはないようだ。試す価値はあるのに、と思いつつ、キャスティも改めて室内を検分する。
ベッドの下もしっかりと確認し、ソローネなら使えそうな針金も見つけた。
「これで開けられないかしら」
鍵穴に差して手を動かしてみるが噛み合うような感触はない。もう一度錠前を確かめたが、やはり鍵はかかったままだ。
「上へ戻ることができればいいのですがね」
共に頭上を見上げ、沈黙する。
天井には固く閉ざされた鉄の門があり、見るからに、押し開くことは難しそうだ。
「棚と……他に痕跡がないか調べるか」
独り言を呟いてテメノスが検証を始める。
こころなしかその横顔が楽しそうに見えたので、キャスティは密かに納得した。
すぐに部屋を出たいわけではないのだろう。目の前に出された美酒をとことん味わいつくさねば気が済まない──。
(困った人ね)
彼自身の性格と嗜好が一致しているからの行動なのだから、勝手に悲観しては失礼だし、どのみちここから何かしらの手段で出られるならそれに越したことはない。
テメノスが棚を動かしたいというのでそれを手伝い、家具の類が一切動かせないことを確認しても、キャスティはあまり深刻に考えてはいなかった。しかしある程度調べるために動き回ったことで、気付くことはあった。
「……空気が足りるといいのだけど」
ポツリと、ほぼ無意識に呟く。この部屋に落ちてから三十分は経過しただろうか。窓がないので外の様子は伺えず、砂時計を取り出し、時間の目安とする。
「なにか分かりましたか?」
「そうね。あまり悠長に構えていると、酸欠になって二人とも死んじゃうかも……ということなら」
「……恐ろしい話だ」
「あなたは? なにか分かったの、名探偵さん」
ベッドに腰掛け訊ねるとテメノスは両手を天井へ向けて首を振った。
「お手上げです。調べようにも痕跡も何もない。……調べるほどこの空間の異質さを感じるだけです」
「そう……」
大人しく彼も隣りに座った。
「せめてお湯を用意できれば、紅茶でも淹れてゆっくり考えられたのでしょうけど」
「構いませんよ。こんな場所で飲むより、宿でくつろぎながら飲むほうがずっと味わえるはずです」
「……それで、結論は出た?」
キャスティは早々に彼の行動意図も理解していたからそう訊いたわけだが、テメノスは返事を渋った。ため息をつく。
「このような形で、行為に及ぶのは不本意ではありませんか?」
「あなたと閉じ込められたことが不幸中の幸いだったから、あまり気にしていないわ。知らない人だったら困ったでしょうし、アグネアちゃんやソローネだったらそれこそすぐに出ていると思うし……」
「……そのくらいのことだと」
「命と比べたら、そうかもしれないわね。──ごめんなさい、あなたの気づかいを有り難いとは思っているのよ」
彼の顔が真剣味を帯びたので慌てて付け足した。
「でも、ここで足踏みをしてはいられないから」
「……分かりました。あなたに従います」
「本当?」
「なので、あなたからしてもらえますか」
にこやかに言うと、テメノスは目を閉じた。
「どうぞ」
「え?」
意図を捉えきれず戸惑う。
(なんだか……妙ね)
彼がこうも素直に応じる背景は、一体なんだろう。本当に出られる手が他になかったからなのか。どうなのか。
「なにか隠してる?」
「いいえ? 何も」
キャスティの問いかけを彼はフフと軽く笑い流す。片目を開けて、茶目っ気たっぷりにこちらを見た。
「先程のあなたを真似しただけです」
「……あらそう」
やはり、ずっと二人きりというのは良くない。キャスティは表情を変えずに立ち上がり、鞄の中から小瓶を取り出した。
「……何をする気です?」
「私からしていいのでしょう? 大丈夫、扉が開いたら手を借りて運ぶから」
安眠草を乾燥させ、煎じたものだ。軽く吸い込むだけですぐに眠気に誘われ、意識を手放す。
手巾を水筒で軽く濡らし、そこへ安眠草を振りかける。水を吸って布に色が沈着したのを見て、テメノスへ差し出した。無理やり押さえつけては先程の彼と同じになってしまうので、あくまで選択を委ねる。
「……」
ジロリと睨まれたので微笑み返す。
少しの間膠着状態が続いた。テメノスは黙ってこちらを見上げるばかりで、キャスティが僅かにでも動けば杖を振れるよう片手に握り込んでいる。
手袋の先に湿り気を覚えて、ため息と共に折りたたむ。
「……目を瞑って」
素手で触れると逡巡の末、薄青の瞳が瞼の奥に閉ざされた。前髪を払い除ける。僅かに痙攣を示した眉間を軽く笑って、緊張しなくていいのよ、と囁いた。
こめかみに触れて駄目だったとして、挨拶に使われる場所が駄目とは限らない。額に触れて、すぐに扉の状態を確認しようと身体を離したとき、手を掴まれた。
「まだ開いていないと思います」
確信を持った声に、キャスティも勘付いた。
「その口振り、何か見つけたのね」
「……そうですね。ええ、白状しましょう──もう少し屈んでくれます? そうです、こちらに」
「なに──」
そんなに大きな声で話せないことなのかと眉を潜めながら肩を近付けた。相手が目を閉じているから問題ないと思った。
それが悪かった。
柔らかいものに触れた。それを実感したときには天地がひっくり返り、自分の身体はベッドの上にあった。
瞬きをする。視線が一瞬重なって、名前を呼ぼうとしたその時になって、何をされたのか、されようとしているのか理解し、動けなかった。
「──ッ、テメノス」
触れ合わせているだけなら唇を動かすことはできる。どうしたかったのか自分でも分からないが、名前を呼んだ途端、口の中を埋めるように何かが入り込んできて喉が震えた。
肩を押したが男性の身体を押しのけることはできず、服を引っ張るがローブのせいで引き剥がせない。
(息が、)
呼吸の仕方など分からない。目眩を覚え、それが酸欠によるものだと気付いてとにかくもがいた。
「はあっ……は、っ」
彼が離れてくれたので肩で息を繰り返し、慌てて彼から起き上がる。
「キャスティ」
とにかくここから出たかった。外からやって来る足音に気付き、引き止められる前に扉へ向かう。
ドアを押し開けると、見覚えのある仲間の顔がそこにあった。
「キャスティ、テメノス──」
付き合いの長いヒカリが目の前にいたから、思わず抱きついた。
「助けにきてくれたのね、ありがとう」
誰かに触れると落ち着いた。オーシュットに問われる前にぱっとヒカリからも離れ、仲間の顔を見上げる。
「キャスティさん! テメノスさんも無事?」
「ええ。でもちょっと空気が薄くて、眩暈がするの。先に地上へ戻りたいわ」
アグネア、ソローネ、パルテティオが土の階段を下りてくる。
「おいおい大丈夫かよ、キャスティ」
「あら、手を貸してくれるの? パルテティオ」
「いいけどよ」
仲間達の体温に触れて、熱を忘れる。心配顔のソローネには大丈夫、と微笑みかけて、パルテティオ、オーシュットと並んで地上へ出た。
残されたテメノスは部屋の外で交わされる仲間達の声を聞きながら、ゆっくりと腰を上げた。
衣服を整え、ローブのシワも伸ばして部屋の外へ出る。
「テメノスさん!」
「心配をかけましたね、二人とも」
「……」
オズバルドは何かあったことを察したのだろう。テメノスをじっと見定めていたが、おもむろに背を向ける。
「中は部屋だったのだな」
「ええ。おかげで腰を痛めずに済みました」
「それなら良かった……!」
アグネア、ヒカリの素直な心配を受け止め、地上へ促す。
一人、テメノスが歩き出すまで動かずにいたソローネだったが、声を掛けると静かについてきた。階段を上り、外へ出る。地下にいるのと、森の中ではこうも空気が変わるのかと深呼吸を通して実感した。
「……悪かったね」
「気にしないでください。楽しんでいたのは事実なので」
「ならいいけど」
自分が見つけた地下道だったから、余計に気負わせてしまったのだろう。テメノスは穏やかに、次はもう少し慎重にいきます、と念を押して慰めた。
「あのさ」
ソローネは甘えるようにテメノスの腕に肩を寄せたかと思えば、ニヤリと口角を上げた。
「二人、何かあった?」
「何もありませんよ」
「ふうん……」
つまらないと言わんばかりに離れ、彼女は細い肩を竦めた。
「ま、手を出すときは気を付けることだね」
「何もありませんから」
「はいはい」
本当は、あの部屋に手がかりなど何もなかった。
刻まれた文字の不可解さも、文字に従えば開くという鍵の仕組みも謎に包まれていた。最終的にあの部屋の中だけではどうにもならないと判断したから、キャスティの意見に賛成し、行動に移したわけだが──もしかしなくとも自分は順番を間違えたのだろうと思っている。
はじめは揶揄われているのだと思った。
ほんの少し冗談を言い合い、気分を解すためのものだと。しかし、どうやら存外彼女は真剣に言っていたようで、テメノスがそれに気付いたのは口付けを終えてからになる。
好かれているとは思っていなかった。仲間としての信頼しか向けられていないのだと思っていた。
テメノスの知る彼女なら、驚くだけで、すぐに逃げはしなかっただろう。
普段焦りを見せないからこそ、酒や熱以外で簡単に頬を染めないからこそ、その理由に期待してしまう。
「……次はもう少し場所を選ぶか」
「なにか言った?」
「いいえ」
この際、酒の力を頼ってもいい。
答えを得るには、多少の犠牲はつきものだ。
テメノスは杖をついてソローネの隣をのんびりと歩く。
先頭を歩くキャスティと目が合った。
その表情がさっと変わったのを見て、早々に決着をつけなくてはならないなと、テメノスはゆるやかに微笑んだのだった。
2、
「用事を思い出したから、後で聞くわね」
キャスティが席を立った。
引き止める隙もなく、早足で去っていく。酒場の扉の鈴が鳴り、テメノスは中途半端に浮かせた手を大人しく引き戻した。
「これで何回目だ?」
一つ空席を挟んだ隣に座っていたオズバルドが指摘する。耳の痛いそれに、ため息を返した。
「数なんて数えていませんよ」
「俺の見る限りで、十三回目だ」
「……十二回目です」
「……数が合わんな」
「答え合わせは遠慮します」
紅茶を含み、それ以上の問いかけを拒む。カウンターへ置いた紅茶の水面に写る酒場の照明を見つめて、思う。
──まさか、ここまで手こずるとは思わなかった。
ソローネの見つけた地下道を探索する途中、不可思議な部屋に落ちたことからテメノスとキャスティの関係は『少々』変化していた。
これまではソローネも含めて冗談に乗っかる間柄だったというのに、あれからぴたりとキャスティがテメノスに関わってこなくなったのである。無論皆の前ではいつも通りに振る舞い、先程のように言葉を交わすこともあるが、そのまま話し込もうとすると断られる。
ヒカリやパルテティオはいつもと変わらないだろうと言っており、オーシュットは変化にこそ気付いているが「ニンゲンも大変だな〜」の一言で片付け気にしていないようだ。残る女性二人はテメノスよりもキャスティに味方をしているようで、アグネアは申し訳なさそうに話しかけてくるが、ソローネはだから言ったのにと肩を竦めるだけで匙を投げている。
つまり唯一の既婚者であるオズバルドがテメノスの味方とも呼べる訳だが、彼においては変化を記録しているだけで、アドバイスを求めようものなら市政の本を読めと言われるばかりだ。
「──手強いな」
密室で二人きりという、通常なら有効活用するべき場面で、密室の謎を解くという方向に頭を傾けてしまったことが良くなかった。
いや、あの場面でなぜ口付けで鍵が開くのかという疑問を持たないことなど無理だ。鍵師や絡繰師など機会があれば、話を聞いてみたいものだ──と考えてしまったところでテメノスは肘をつき、組み合わせた両手に額をつけるようにして吐息した。
(……やはり、このままがいいのだろうか)
謎が何物にも代えがたいものであるから、惹きつけられる。人に向ける興味関心とは別のものであるので、こればかりはどうしょうもない。
これまではそれで良かったはずだ。それなのに、どうしてこんなにも彼女に焦がれてしまうのだろう。
「……」
茶器を見下ろして、思う。
──彼女の淹れる紅茶を、久しく飲んでいない。
それから最後の夜を経て、二人の関係は再びもとに戻っていた。謎を解き明かす過程で、壮絶な闘いがあり、気まずいなどと言っていられない状況だったことも理由だろう。
仲間を慰め、ときに慰められる側に立ちながら、死闘を乗り越え皆で待ち望んだ朝日を見た。──あの時の光景は、目に焼き付いて今も離れない。
金色に輝く朝日を浴び、文字通り世界を救った彼女は、これからも多くの病や怪我に悩める者を救い、救う者を育てていくのだろう。その彼女が、どんな理由であれ自分を意識しているというなら?
取り組む理由としてはそれで十分だと開き直った。
もとより叶うはずもないと考えていたのだから、今更何を恐れよう。
旅の目的も終え、世界を救い、共に旅をする理由は失った。カナルブラインに戻ってきた八人は、このままここで別れるのも寂しいから、というアグネアの提案に乗り、再び、あのキャンプ地へ向かうことにした。
ここしかない、と思った。テメノスは静かに時を待った。
腹を満たしたオーシュットがもう寝る、と言って地面に丸くなったとき、頃合いだと考えた。ヒカリが笛を鳴らし、アグネアが踊り始め、オズバルドが感嘆の息をこぼして二人を見守っている。パルテティオが注いだ酒を手にソローネに呼び掛けたのを見て、テメノスもまたオーシュットに持たされた干し肉を片手にキャスティの傍へ移動した。
「食べませんか?」
「有り難いけど、お腹はいっぱいなの。誰かに食べてもらいましょう」
両手を上げて断る姿が妙に可愛らしい。
地面に置かれた木皿の上へ肉を置き、よいしょ、とキャスティの隣に腰掛けた。
「……いい夜ね」
「ええ、本当に」
キャスティがヒカリ達の方へ視線を向ける。その横顔を見守っていたかったが、テメノスは意を決してキャスティの手を取った。
「散歩に行きたいので、付き合ってもらえませんか」
「え?」
断らないでほしいと願いながら、手を離す。キャスティはさして気にした風もなく頷いた。
「じゃあ、ついでに水も汲みにいきましょうか」
バケツを手に近くにある小さな湧水池を目指す。キャスティが事前に毒性について調べており、この池の水は飲んでも良いということになっていた。
彼女は何も言わなかった。静かにテメノスの後をついてくる。
「……長いようで、短い旅でしたね」
「ええ、本当に」
月の光が落ち、池の水面はキラキラと輝いていた。穏やかで、静かな水の音に耳をそばだてるように少しの間沈黙し、ややあって、キャスティに手を差し伸べる。
「貸してください。掬いますよ」
「ありがとう。お願いするわね」
以前ヒカリと当番になったときは重く感じた水だが、旅を経て多少は筋肉がついたのだろうか。一つ程度ならふらつくこともなく、水を掬う。
キャスティは直ぐ側に立っていた。水面に反射する彼女の顔色は伺えない。
「私に話したいことがあるのでしょう?」
顔を合わせると、キャスティはどこか苦笑するように言った。
「ええ、まあ」
バケツを置き、立ち上がる。
「……聞いてくれますか?」
「最後だもの。わだかまりを残したくないのは私も同じ。……覚悟はできているわ」
「覚悟、ですか」
妙な言い回しが引っ掛かり、テメノスは首を傾げた。
「ちなみに、どうして覚悟が必要なんです?」
「あなたの話を聞いてから答えるわね。どうぞ」
そう言われると先に話したくなくなるものだが、キャスティの顔色は真剣そのものであったので、逡巡の末、ようやく時間を得られたのだからと思い直し、小さく息を吸った。
「順番を間違えてしまったことを、反省していたんです。……いくら密室から出るためとはいえ、女性に乱暴を働くなど合ってはなりません。すみませんでした」
「……私は早く出たかったから、気にしなくていいのよ」
「それでも、ですよ。不本意な状況であれ、先に伝えるべきでした。……あなたと二人きりでいることも、口付けることも私にとっては幸運であり、不運などではなかった。私はあなたとだからあの状況を楽しめたのだと」
「そう……。それなら、良かった」
段々と俯きがちになる彼女の様子を見て、テメノスは言葉に迷った。
「キャスティ。もう一度、私に機会をもらえませんか。──あなたの笑顔を一番近くで見られる人になりたいので」
返答は、なかった。
衣擦れの音がした。キャスティが握り合わせていた両手を顔に押し当てる。
「どうしました?」
「ごめんなさい、火照っちゃって。……まるで告白されたみたいに聞こえて、照れちゃったの」
すぐに冷ますから、とこちらに背中を向け、氷柱を生み出そうとするキャスティに近寄り、両の手首を掴む。
「え?」
「……今のは告白のつもりだったので、熱を冷まさないでください」
「えっ、ええっ?!」
手を離し、代わりに後ろから抱き締める。思うより華奢な身体は想像以上に柔らかく、腕が吸い付いて離れない。
「て、テメノス……ねえ、離れて……」
「返事をくれるのなら考えます」
ああ、だの、うう、だとキャスティは母音をブツブツと唱えて片手で額を押さえていたが、大きく深呼吸をした後、テメノスの腕を軽く引っ張った。
「顔を見せてくれない? 見たいわ」
「……いつもと変わりありませんよ──」
腕の力を緩めるのと、頬に手が添えられたのは同時だった。リップ音と共に口端に触れた感触に目を瞠り、困ったように笑うその顔が月光に照らされてよく見えたとき、同じようにその下顎に手を添え、唇を触れ合わせていた。
「……本当はね、忘れないといけないと思っていたの」
バケツを片手に、もう片手にキャスティを引き連れ、テメノスは森の中を散歩していた。このまま仲間達のところへ戻っても良かったものの、まだお互いに話し足りない部分もあったからだ。
「あなたの顔を見るたび思い出しちゃって……あなたは私のことをなんとも思っていないと思っていたから、余計に、気にし過ぎる自分が嫌だったのよね」
「考え過ぎてしまったわけですね。……おかげでやきもきさせられましたよ」
「悪かったと思ってるわ。でも、あなたは恋愛なんてしないのだと思っていたから」
子供のように軽く手をゆすり、キャスティが近寄る。顔を覗き込むように彼女はその清らかな目にテメノスを写した。
「謎は、何物にも代え難いごちそうなのでしょう?」
「……ええ、否定はしません。なので考え直すことにしたんです」
上体を屈め、キャスティの額に唇を寄せる。逃げることなく受け止めてくれた喜びをしっかりと味わい、薬草の香りと共に記憶する。
「どちらも私には必要なものかもしれない、とね。……あなたにとって重荷とならないことを願いますよ、キャスティ」
「あら、優しいのね」
「私はいつでも優しいので」
「うふふ。……そうだったわね」
腕を組むように身を寄せてくれたことが何よりも喜ばしく、足を止める。少しの間、離れていた分の想いを分かち合うように二人静かに身を寄せ合っていた。
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