花嫁探し

馴れ初め。
ヒカリ母と父ジゴについては確認していないため捏造含まれます。
女性陣のパティチャを見てないので恋愛はしたことないキャスになってます。実際どうなんだろ……??


アグネアから舞台の知らせと手紙が届いたのは、ヒカリが仲間達と別れて数ヶ月が経った頃だった。ベンケイから受け取った手紙はこれ以外にも二つあり、一つはキャスティから、もう一つはパルテティオからの鉄道の進捗の知らせだった。
「……相変わらずだな」
三人とも、文章から各々の様子が伺え、ヒカリは笑みを浮かべた。息災で何よりだと頷き、ベンケイへ手紙を返す。文箱へ片付けるよう頼んだわけだが、彼はやや神妙な面持ちでヒカリを見つめていた。
「どうかしたか」
「は。……いえ、陛下はこの先どうされるおつもりでいるのかと」
「? アグネアの舞台だ。そなた達も観に行くだろう?」
「それはもちろんではありますが!」
鎮魂祭の一件もあり、ヒカリの臣下達はアグネアの踊りにすっかり魅入られていた。特にベンケイはミッカの着物を繕ってくれたブリスターニ家に恩義を感じており、その感謝の力強さはヒカリも驚くほどだ。
「例えば、その……差し出がましい話ではありますが、どなたかを娶られては如何と」
「ベンケイ。ク国はまだ復興の途中だぞ」
「めでたい話は、民を勇気付けます。ご一考を」
ク国のために粉骨砕身で生きてきたが、まさかその延長で妻を娶れと言われるとは。
ヒカリはうんざりとして、稽古に出ると言って外へ出た。
庭で剣を振る。こうして稽古の時間を取れるようになったのも、民と手を取り合って助け合って来たからだ。
(それがまさか、夫婦の話にまで飛ぶとは……)
急な変化は民を混乱させるからと、ク国が落ち着くまでは王の座に居るつもりだ。だが、ゆくゆくは町ごとに自立できるよう、整備しなくてはならないとも考えている。
ヒカリがこの世を去ってもク国が穏やかでいられるように──自分と友の行く末が明るいものであることを願うからこそ、そのように考えているわけだが、臣下達にもそれぞれ思いがあるようだ。
ヒカリは今年二十歳になる。父ジゴはどうであったかと振り返り、首を横に振った。
正室と側室と。女性を複数人娶るような真似はしたくない。
それよりは親を失った子供達を城で育て、その中で後継者を選んだほうが──と考えたところでソローネのことが思い浮かび、これもまた、単純な話ではないなとため息をついた。
どうしたいかを考える。妻を娶らず一人で生きるにせよ、ヒカリが年を取ればどのみち誰かに国を委ねる日が来る。
その時に、どうであってほしいか。──一人でも多くの民が、ク国を思い、共に助け合える道を選べれば良いと思う。
『一人でも多くを、救うために』
この時過ったのは仲間の一人、救いの手とまで呼ばれた薬師の姿だった。
(……そうだな。これは、彼女の考えと似ている)
同じ思想を持つ者で集まり、一人でも多くを助けて回る。彼女はその中で知識や経験を継承し、多くを救えるようにと今このときも旅をしている。
最後の一振りを終え、汗を拭う。
アグネアの手紙によれば、仲間全員に声を掛けているようなので、彼女にも──キャスティにも会えるだろう。
彼女ならば、どう答えるだろうか。話をしてみたくなり、ヒカリはそこでこの話について考えることをやめた。


アグネアの舞台は見事なものだった。拍手の鳴り止まぬ空間の中、ヒカリも熱心に手を叩いて仲間の勇姿を称賛した。
案内の者に従い、拍手を止め、順に席を立つ。通路から数えて三番目に座っていたヒカリとキャスティは同じ頃に立ち上がり、目が合うや互いに微笑んだ。
「素敵だったわね」
「見事だったな」
唱和するように声が揃い、二人で笑う。
「この後はどうする予定なんでしょう」
劇場の外に出たところで後ろからテメノスが誰に聞くでもなく唱えた。
「私も今日明日は休みを取りましたので、食事に出かけるなら付き合いますよ」
「いーね! ちょうどハラ減ってたんだ〜」
「なら、もう場所は決まりだな」
オーシュットが言いながら干し肉を取り出し、パルテティオがコインを弾く。その手に掴んだところで目当ての人物──ギルが通りがかり、よお、と声を掛けに行く。
「泣いてる?」
「……涙腺が刺激されたらしい」
「フッ、いいじゃん」
ソローネが鼻をすするオズバルドと共に出てきた。キャスティが鞄の中からハンカチを取り出し、差し出す。
「どうぞ」
「……すまん」
穏やかなその横顔は旅中で見た頃と変わらない。
トン、と肩を小突くようにソローネがもたれてきた。
「どうした、ソローネ」
ヒカリは平然と問う。
「こっちのセリフ。キャスティがどうかした?」
「ああ。……少し話すことがあってな」
「なに?」
仲間達が歩き出したので、ソローネと並んで歩く。途中、臣下の一人、ライ・メイと出会ったので他の者には羽目を外さぬようにと一言付け足し、暇を与えた。
「ベンケイがな。妻をと言い出したんだが」
「へえ」
「簡単な話でもあるまいと、キャスティに話を聞いてもらおうと考えている」
「……なんで?」
ソローネが怪訝な顔をした。後継者の話も含めてこれまで大まかに考えたことを伝えると、ふうん、と相槌を打ったが、腑に落ちていないようだ。
「これからどうしたいかを考えたとき、彼女ならどう考えるだろうかと思った。それだけだ」
「まあ、……そうかもね」
彼女が肩を竦める理由が分からず、ヒカリは首を傾げる。
「それほど変なことをしているか?」
「変とまではいわない。聞いておいた方がいいこともあるから……でも、そこでキャスティに聞くっていうのがなんとも」
「……そうか」
確かにここにはオズバルドもいることだ。彼は統計的な知識もあれば歴史的な話にも造詣が深い。学者の知識を頼るのも手かと考え直し、皆の後について酒場へ向かった。


アグネアが合流して、少しした頃。
マヒナが窓から羽ばたき、外へ出た。室内を好まぬ彼女は、野外で過ごすことにしたらしい。ソローネが早速手すりにもたれ、マヒナと遊び始める。
「メシ〜!」
オーシュットの考えは明快で分かりやすい。村の守り人として、長として頭角を現した彼女は、聞けばケノモ村を率いる者として師匠からあれこれ話を聞かされているらしい。
テメノスにもうたいへんなんだ! と熱心に語るので、ヒカリも酒を片手に同席を願い、民を率いる難しさについて彼女の考えを聞く。
「二人とも、若いのに大変ですねえ」
しみじみとテメノスが感心するので、そういう彼も大変だろうとヒカリは言葉を返した。異端審問の職については旅の中で理解を深めた。あのような旅を繰り返し、事件を解決することが彼の仕事だと思っている。国や村といった境界線がない分、その大変さは想像すら難しい。
「ここ、空いてる?」
「キャスティ!」
オーシュットが嬉しそうな声をあげた。ヒカリの右手側に着席したのは、キャスティである。
「私も混ぜてもらえない?」
「もちろんだ」
酒を新たに頼み、四人で近況を語り合う。
それから少ししてヒカリはキャスティと二人で話す機会を得た。
パルテティオやオズバルドも隣席にやってきて話をしたが、彼らはそれぞれ別の理由で席を移動したためだった。
パルテティオは集まった客たちと語り合うために。
オズバルドは研究書を読み漁るために。
「みんな、相変わらずね」
話を締めくくるようにキャスティはそう言い、酒を飲み干した。忘れがちだが彼女は酒が入ると妙に隙が増える。脱いだ上着をまとめ、卓上へ置くと、はあ、とその上に頭を置く。
「そなた、ここで寝るなよ」
「寝ないわよ。……みんなの声を聞いていたいもの」
ぱっと上げられたその顔は輝いていた。
「ねえ、話したいことってなにかしら」
誰かの助けになることを喜ぶ彼女は、ヒカリの方へ身体を向ける。
「ああ、それは……」
ソローネにも話したことを語ると、ふむふむと彼女は親身に耳を傾ける。
「私は王様じゃないから分からないけど……でも、あなたの言うことは分かるわ。結局、一人ひとりが変わらないと、どうにもならないことだってあるもの」
「そうだな。だが、時間のかかる話でもあるからな……」
「そうねえ……」
うーんと首をひねっていた彼女だったが、おもむろにぽんと両手を叩いた。
「私が探してあげましょうか?」
「うん?」
「お嫁さん……とまではいかなくても、ほら、色んな国を見て回るから、同じようなことを考えている人もいると思うのよね。王様に会うのは難しくても、領主様とか……ティンバーレインだったらお姫様も出歩いていらっしゃるし。なにか参考になる考えがあるかもしれないわ」
「いや、それはそなたに負担をかける」
「いいのよ。どのみち街を見て回るのだもの。色んな考えに出会えるはずよ」
それからキャスティは手帳とインク瓶とペンを取り出し、さらさらとメモを取り始めた。
「話を聞けたら、手紙を書くわね」
「う……うむ」
「ああでも、不要になったらちゃんと言ってちょうだいね」
「? どういう意味だ」
「あら」
キャスティは書き終えたところで顔を上げ、はにかむようにこう言った。
「好きな人ができたら、また話が変わるでしょう?」
それに対しては曖昧な返答しかできなかった。
好きだという感情に思い当たることがなかったからでもあるし、──ほかでもない彼女が最もな発言をしたことが予想外だったから。



ク国の歴史を遡れば、戦の過程で捕虜を得る他に、敗戦国から姫を娶り、属国の人質として城に住まわせた時代もあったという。
父ジゴはどうだったのだろう。少なくともヒカリの母は庶子の出であるから、見初められたのだろうが。
では、ムゲンの母はどうだったのか。病弱で早くに亡くし、その後にヒカリの母が娶られたので、父ジゴは二人の女性を愛したとも考えられるし、愛を育む前に喪った可能性もある。
「……分からん」
「どうなさいました?」
ヒカリが書斎で唸っていると通りがかったベンケイが声を掛けてきた。
「そなたに言われて、妻について考えてみているのだが……これがどうにも難しい」
「なんと!」
その驚きように、流石のヒカリも勘付いた。
「そなた……さてはさほど本気ではなかったな?」
「はっはっ、何をおっしゃいます。いずれは必要なこととは考えておりますぞ」
「はあ……」
真面目にキャスティに相談してしまった今、あの話は気にしなくて良いと言うのも気が引ける。なにより、もういいと伝えてしまうと、彼女のことだ、好きな相手ができたのだと勘違いしかねない。
(それは……困るな)
口頭で伝えれば、問題ないだろうか。
ヒカリはベンケイに頼み、手紙を鳥に運ばせることにした。
話したいことがあるから来てほしい、と短く記して。


キャスティがク国を訪れたのはそれから二週間後のことだった。
「何かあったの?」
顔を合わせるやキャスティが気づかうように問うので、ク国は至って平穏だと述べたあと、以前、ニューデルスタで話した件だと伝える。
「ああ、そうだわ。いくつか聞いたことがあるの。後で話すわね」
「もう聞けたのか?」
「ええまあ。助けた人が貴族の方で……熱心に求婚してくるから、なにか理由があるのだと思って聞いてみたのよ」
キャスティはさらりと言ったが、ヒカリは耳を疑った。
「まずはヒカリくんから、」
「それは、どんな理由だったのだ?」
「え? ああ……子供のために母となってくれる人を探していたんですって。その家にはね、縫製の技術を継承する義務があったみたいで……」
それから彼女はいくつかの事情と考え方を述べ、こんなところかしら、と話を止めた。
「それで、ヒカリくんの話って?」
「う、うむ。あれからベンケイに聞いてみたのだが、急ぐ話ではなく、……ただ乗せられただけだった」
「そうなの」
気まずい思いで伝えるとキャスティは、元気を出して、とヒカリの背中を撫でる。
「……そなたは」
「なあに?」
「そなたは、どういう理由なら婚姻を考える?」
好きな人、などという言葉を選ぶのだから、彼女は恋や愛の経験があるのだろう。その上で夫婦となる道を選ばなかったのかもしれない。だとすれば、逆に何があれば彼女はそれを選ぶのだろうか。
そうねえ、とキャスティは首を傾げて考えていたが、ややあって、苦笑する。
「……恋愛はしたことがないの。私には向いていないのかもしれないわ。だから、相手の人を信頼できて、私のやりたいことをもっと叶えられる……とかじゃないと結婚はしないかもしれないわね」
「なるほどな」
そこで信頼を口にするあたりが彼女らしいなとヒカリは思った。同時に、彼女の考え方に共感した。
ヒカリも恋や愛だの考えるより、ク国のために共に立ち向かっていくことができるか──ク国への姿勢を基準としたほうがしっくりくる。
「立ち話もなんだ。酒場で食事はどうだ?」
「いいわね。ちょうどお腹も空いていたの」
朗らかに笑うキャスティを見ていて、思う。

彼女のように落ち着いたひとであれば、自分も妻にと考えるのだろう。

(──今、何を)
足を止めたヒカリを不思議に思い、キャスティが振り返る。
「ヒカリくん?」
「いや、……気の所為だ」
「そう。でも、少しでも気になるところがあるなら、言ってね」
「ああ……」
二人で酒場へ入る。以前、ムゲンが謀反を起こす前にヒカリが助けた酒場だ。ムゲンの支配下にあったときも、戦の間も、店主が必死に守ってきたおかげで、こうしてまた酒の席に着くことができる。
「ここにはあなたが王子だった頃からの歴史があるのね」
話を聞いてくれる。朗らかに相槌を返してくれる。それはキャスティがこれまでにも多くの人を助けるために、話を聞く必要があったためだと理解していたが、ヒカリはこの時新たな思いで話を聞いてくれたことを感謝した。
酒とつまみが運ばれる。店主とも話を交えながら、料理を楽しむ。
「これ、なんの料理?」
「麦を発酵させたものだ。味噌といって湯に溶いても美味いし、野菜に付けても美味い」
「へえ……見た目はあまりいいとは言えないけど、まろやかな味」
ク国もといヒノエウマは環境のためもあってか、他地方と異なる料理も多い。調理法自体は珍しくなくとも、何をどのように用いるかの部分が変わるので結果的に違う味付けになるのだ。
「そうだ。そなたの好きそうな話を一つ思い出した。この国には薬膳料理というものがある」
「気になるわ。聞かせてちょうだい」
研鑽に励む彼女のためになるならと城で読んだ話と実際に食しての感想を語り聞かせる。
人を治すこともそうだが、彼女は健康を維持するためのノウハウにも興味を持つので、ヒカリの話を熱心に聞いていた。カンポウの話になると、トト・ハハで採取した時の話も出て、会話は弾んだ。
酒は進む。彼女が上着を脱いだので引き取る。
その手がボタンに手を掛けたので、ヒカリはそれとなく視線をそらした。もとよりク国男児として、未婚の女性の肌を見るものではないと教育されている。それにも増して、この時は見てはならないという強い思いから顔を背けた。
「あら、ヒカリくん。お酒、注ぎましょうか」
「あ、ああ」
「ほら、持って」
ボタンを外す手を止めたのだろうか。キャスティは手を伸ばし、ヒカリの手に盃を持たせる。手が触れる。
すぐそばに、彼女の体温を感じた。
「どうしてそっちを向いてるの?」
「これで十分だろう」
「まだ注いでないわよ。ちゃんと見て、落とすと危ないわ」
「いや、キャスティ──」
ぐい、と肩を掴まれ、振り向かされる。思うより近い位置に顔があった。
「いい子ね」
にこ、と仄かに頬を染めた顔で笑う。
キャスティが酌をする間、ヒカリは盃の向こう側、彼女の姿をじっと見ていた。エプロンこそ付けているが、その襟元は一つどころか四つほどボタンが外され、細い首の下──白い素肌が覗いている。
ガタ、と席を立っていた。
「あ」
盃を持ち直したところで遅かった。酒を少量、彼女のスカートにこぼしてしまう。
「す、すまぬ」
「いいわよ。手巾を借りるわね」
「俺が取ろう」
自分の膝を汚すならまだしも、彼女の衣服を濡らしてしまうとは。ヒカリは急いで手巾を借り、キャスティに渡す。
胸元から足元までまんべんなく酒が垂れてしまい、そこだけ色が濃くなる。
「着替えを貸そう。城まで行けるか?」
「このくらい平気よ。エプロンにかかっただけだし……」
「ならぬ」
女性の服を汚しておいて対応しないなど、ク国男児の風上にも置けぬ。店主にはすまぬがと声を掛け、ヒカリはキャスティに上着を羽織らせると、その手を取って急ぎ足で城へ向かった。
ライ・メイが見張りに出ていた。彼女に事情を話せば、倉庫に女物の着物がしまわれてあったと教わる。キャスティの案内を彼女に任せ、ヒカリは倉庫へ向かった。倉庫番の兵士に頼み、いくつか着物を見繕わせ、着替えとして持って行く。
キャスティが着替える間に、城の部屋を一室開けさせる。
「陛下の近くの部屋になされては?」
「そなた、本気ではあるまいな?」
「こればかりは私には決められませぬ」
「何を言って……」
王と親密な関係であれば部屋を近くに配置することがもてなしの一つであるが、未婚の女性が相手となればまた別だ。親密の意味も変わってくる。
ヒカリは一つため息をついて、それ以上の問いを避けた。
「冗談はさておき、空いている部屋自体はあるか」
「あるにはありますが、客人を招くとなると陛下の向かいの部屋ほどしかありません」
「……城の整備も急がなくてはな。分かった、キャスティにはその部屋を使ってもらおう」
「は!」
やけに嬉しそうに返事をする。ベンケイのつるりとした頭を一睨みして、ヒカリはライ・メイの呼び出しを待った。
「ヒカリ」
「ライ・メイ。着替え終わったか」
「ああ。こちらへ」
「……ごめんなさいね、夜分にこんな大事にして」
篝火の焚いた庭先に出てきたキャスティは剣士の職の時と同じ髪の結い上げ方をしていた。
緋色の多い着物を着たその姿はあまりにも目にしっくりときて、つい、言葉を忘れる。
「ヒカリくん?」
「……似合っている」
「そう? 剣士の服装と似ているからかしらね」
袴姿で剣を振るう姿は勇ましいものだったが、このときの服装はどちらかといえば凛とした、上品な雰囲気があった。
月明かりの下でなら、彼女の金髪も、翡翠の瞳も美しく見えるのだろう。旅中で見てきた彼女の姿を思い返していると、ベンケイが城の奥から顔を見せた。
「部屋の用意ができましたぞ」
「宿は取っているわよ?」
「濡れた服を干すには、広い方が良いだろう」
「それはそうね。ありがとう、ヒカリくん」
ワンピースと違い、着物姿ではいつものようには歩けない。キャスティが足をつんのめらせたので、慣れるまではと片手を取って部屋を案内する。
「前にも来たけど、奥に広いお城ね」
「そうだな。ク国は木材が少なく、固い地盤も狭い。城を建てるにはこの形を取るほかなかったのだろう」
襖や掛軸など、調度品の珍しさもあったようで彼女の部屋へ案内するまでに少し時間をかけた。
部屋には休めるように寝床が整えられ、彼女の荷物も揃えてある。
「じゃあ、今日はこのまま休ませてもらうわね」
酒も飲んでいたことだ。ヒカリもその提案に頷き、何かあれば呼ぶようにと言付け、自室へ戻った。


それからヒカリも寝支度を整え、寝台に横になった。髪結いも解き、剣や服、小手も置いて寝られる。この平穏な夜を迎える度、ヒカリの旅も無駄ではなかったなと思う。
──ここへ連れて帰れなかった仲間の姿が過り、意識的に頭の中から振り払う。
忘れるつもりはない。ただ、剣を交え散っていったリツと違い、最期は言葉もまともに交わせなかったことだけが、いつまでもヒカリの胸にわだかまりを残していた。
おそらく、これすらも、かの鷲は見透かしている。その上で、あのように命を燃やしたのだ。ヒカリの目の前で。
(……眠れん)
目を瞑って身体を休ませていたが、眠気はなかった。髪を下ろしたまま、一枚上着を羽織り、剣を提げて廊下に出た。
欄間からあふれる燭台の火が、廊下を仄かに照らす。向かいの部屋、キャスティの休む部屋は暗く、彼女が休めているならそれでいい、と両裾に手を差し入れるように腕を組み、玄関口を目指した。
からりと戸を開け、庭へ向かう。宝物庫の見張りをしていた兵士が、ヒカリに目を留めた。
「ヒカリ様」
「どうした」
「先程、ヒカリ様のお連れ様が、庭先へ出られました」
「……そうか。様子を見てくる」
寝ているのかと思えば、起きていたとは。
ヒカリは兵士の示した方へ足を向けた。
今夜は、月の明るい夜だ。明かりがなくとも十分に歩くことができる。
庭へ出る。縁側に腰掛ける人影があった──キャスティだ。
髪を下ろし、ぼんやりと空を眺めているように見える。
砂を擦る音を立てて近付けば、警戒するようにこちらを振り向き、ややあって、肩の力を抜いた。
「どうしたの? こんな夜更けに」
「そなたの方こそ。やはり、宿の方が良かったか?」
「とんでもない。寝心地は良かったわ。ただ……なんだか眠れなくて。今夜は月が綺麗だとライ・メイさんが言っていたから、見に来たの」
「なるほどな。……確かに、見事な満月だ」
穏やかな風が吹いていた。キャスティに誘われるままに隣に座り、二人、空を眺める。
「ヒカリくんは、どうしたの?」
「……少し、旅の頃を思い返していた」
「私もよ。どうしてかしらね……安心できる場所だから、考えちゃうのね」
さらりと告げられた言葉から、彼女の信頼を汲み取る。
「そうだと嬉しい」
「本心よ」
志を違えたことは問題ではない。それでも道を譲れぬから選び、進んだだけ。──カザンもきっと、そうだった。
「……なんだかね。助けられなかった人の分まで、私がやらなくちゃいけないって、思うのよね」
おもむろにキャスティが口を開いた。
「この手で救えなかったことがあるから、次に進もうと思うの。それを嫌だなんて思ったことはないし、これからも続けるつもりだけど、……時には立ち止まってもいいのよね」
それはヒカリに語るというより、自分に言い聞かせているように聞こえた。旅の頃のことを振り返っていたなら、彼女が思い描いているのは──ティンバーレインで手にかけたあの男のことだろうか。
『団長。あなたのことも、救ってみせますよ』
紫の毒雨を降らせたあの青年は、エイル薬師団の仲間だったという。キャスティが育て、誰よりも期待していた、未来ある若者だったと。
仲間を奪われ、生き残ったのが彼女だ。ヒカリは常に仲間と共に戦を生き延びてきたから、彼女が何を感じたのか、想像することは難しい。
「……そなたが休めるなら、いくらでも部屋は貸そう」
「ふふ、ヒカリくんたら」
「友のためだ。それに、俺も隣に居る」
「──……そうね」
ニューデルスタ停泊所で、記憶を取り戻した彼女がとぼとぼと歩いて戻ってきたとき、出迎えたのはヒカリだった。何も言わぬ彼女が、酷く傷ついていることだけは理解しつつも、慰めることが助けになるとは思えず、ヒカリは励ましの言葉を贈った。
彼女の言葉がヒカリの道標となるように、ヒカリの言葉が彼女の背中を押すものであればいい。
「ねえ、ヒカリくん」
「なんだ」
「……少しだけ、肩を借りてもいいかしら」
「お安い御用だ」
一人になった彼女が、その後エイル薬師団としてどうしているのか、深く聞いたことはない。仲間を増やしているのかもしれないし、一人でここに来たということは、まだ仲間を探している途中なのかもしれない。
肩に、わずかに重みが乗る。もう少し寄りかかっても良いと思ったが、それを口にすることはなかった。


その後、キャスティを部屋まで送り、ヒカリも寝床についた。
話すことで気が和らいだのだろう、頭を寝かせるとすぐに寝入り、次に目覚めたときには朝だった。眠る時間は普段より遅かったはずだが、妙にスッキリとしている。髪を結い、整えられた服を着替え、小手を付ける。
部屋の外へ出ると、向かい側の扉も開いたところだった。
目が合う。彼女は着物ではなく、いつもの空色の服装だった。
「おはよう、ヒカリくん」
「おはよう。……キャスティ」
朗らかな笑みを向けられ、ヒカリも釣られるように口元を緩める。
──胸にしっくりと来るものがあった。
「朝餉は皆で取ることにしている。そなたもどうだ」
「いいの? いただくわ」
「ああそれと、宿の者にはあの後言伝を頼んでおいた。今回の滞在は城を使ってくれ」
「ありがとう。とっても助かるわ」
宿や酒場でも十分だが、それでも調合するために道具を広げやすかったとキャスティはほのぼのと語る。
仕事熱心な彼女の話に耳を傾けながら、ヒカリは一つ決意を固めた。

信頼のおける相手で、自分のしたいことをもっと叶えられるなら──

民が一番とはいえ、国の境を越える越えないがヒカリの行動に制限をかけるかというと、そんなことはない。多くの民が困窮せず、共に明日を生きるためには、それ以上に多くの人との関わりが必要だ。
一人でも多くに、救いの手を差し伸べたい。ヒカリの見据える先は、彼女の行動を制限せず、文字通り一人でも多くに辿り着く手伝いになるだろう。
(……驚くだろうな)
彼女の希望も満たせるだろうと、ヒカリはどこか晴れやかな気持ちで食卓に付き、皆と和やかに朝食を取った。


ヒカリがキャスティに告げたのは、翌朝のことだった。
この日を最後にキャスティが旅立つと言うので、その前に話しておきたかったのである。
「キャスティ、話があるのだが……」
「あら、なに?」
「……。……こちらに来てくれ」
臣下達からの妙な視線が気になり、城の外へ促す。見張りの兵士も遠く、町中の声があるのでここならヒカリ達の話し声も聞こえぬだろう。
「妻の話だが、」
「ああ、大丈夫よ。また話を聞くことがあったら、聞いておくわね」
「……そうではない」
はっきりと言えばいいだけのことが、照れくさい。ク国男児ならば、恥じらいを捨てろと言い聞かせ、キャスティを見据える。
「そなたに、……妻になってくれと言うのは、どうだろうか」
「え?」
「そなたも言っていただろう。信頼の置ける相手で、できることが叶えられるなら考える、と」
「え、ええ……」
相談をされていたのに、急に婚姻を申し込まれては戸惑うのも当然だ。ヒカリは考えられる限りの彼女の願いを叶える形の提案を唱え、それから、軽く息を吐くと胸を張った。
「俺はそなたのことを十分に信頼しているし、そなたからの信頼も感じている。もしそれでも足りぬと言うなら諦めるが……どうだ?」
「まあ、ヒカリくん。あなた」
一通り話を聞いてくれたキャスティは、ヒカリの差し伸べた手を取るのではなく、口元へ寄せ、驚いてみせた。それからビシ、と人差し指を立てる。
「ちょっと考えが甘いわね」
「な、そうか?」
「そうよ。だってあなた、婚姻は『あなたと結婚します』だけじゃないでしょう? ……あなたの暮らしのことも掛かってくる」
慰めるようにヒカリの肩をポンと叩くと、キャスティはいつものほほ笑みを浮かべた。
「あなたの提案はとても魅力的だけど、それだけじゃ受けられないわ。ごめんなさい」
「そ……そうか」
「……じゃあ、少し、出かけてくるわね」
「ああ」
片手を触り合って別れる。キャスティはこの夜まで城に泊まることになっているので、また帰ってくる。戻ってくる。
分かってはいるのだが。
「ヒカリ様ー! そろそろお休みになられては?」
剣の稽古をすると言って正門前の修練場に向かい、鍛錬をしていた。兵士に声を掛けられてようやく自分が何時間も剣を振り続けていたことに気づき、水をもらう。水分補給を怠ってはならないと、キャスティからも厳しく言われていた。
城下町の安全を確かめながら城へ戻り、ベンケイ、ライ・メイ達から各地の報告を受ける。
そうして気付けば、再び稽古用の木刀を掴んでいた。
「酷い汗ですな」
いつからそこにいたのか、ベンケイが手ぬぐいを差し出す。
「何か考え事でも?」
汗を拭いながら、彼の問いをぼんやりと聞いていた。
元はといえば彼の提案から始まった話だ。ヒカリも思わず愚痴の一つでも言いたくなる。
「……キャスティに」
「はい」
「妻にと話をしたら、断られた」
「なんと!」
ベンケイはライ・メイの雷槍を受けたかのように驚きよろめくと、ヒカリに詰め寄る。
「そ、それは……なんとお伝えになられたのです?」
身体を休ませるついでに今朝のことを語ると、ベンケイはつるりとした頭を撫でて唸った。彼ですらそんな反応をするのなら、当人のキャスティも余程困るものだったのだろう。
「それほど変な話だったか……」
「……いやはや、流石はヒカリ様のお仲間。手強いですな」
「ベンケイ?」
「このベンケイ、助太刀しましょう」
そうしてまずは場所を移しましょうと城の中へ促された。着替えを済ませ、座らされたのは玉座だ。
「非礼を承知で申し上げますが、陛下──ヒカリ様には残念ながら恋に疎く存じます。妻を娶るとはどういうことか、今一度、よくお考えください」
「……そなたが言い出したことだぞ」
「左様。そうでもしなくては、いえ、そうまでしても鈍いことが今明らかではありませんか」
む、と口を閉じたヒカリは先の問いについて考える。が、ベンケイの言わんとすることはさっぱり分からない。
「……なにを考えるんだ?」
「夫婦という言葉がございますように、」
最早ベンケイは何も言わず、説明を始めた。王が妻を娶るということはすなわち、王妃を据えるということになる。これまでク国は男性が主権を握ってきたので、実質的な権力が王妃に発生する訳では無いが、緊急時や王不在の際に王と同様の対応を求められる。
さらに、妻が求められる最大の理由は、世継ぎを産むためだ。
共に育み、ク国の未来を子に委ねる──ヒカリがどう思おうと、戦に苦しんできた民にいきなり全て一人で立てと言うのは現実的ではない。その時が来るまで庇護者が必要だ。
話を一通り聞き入れたところでヒカリは腕を組んだ。ク国の歴史は、ヒカリも継いだク家の血が築いてきたものでもある。闇の力が血によって継がれるものなら、事情を知る者の方が良さそうだ。
「ク家に嫁ぐとなると、それだけの制約と責任が課されるわけです。それを乗り越えるには信頼だけでは足りませぬ。互いを思い合う心があってこそ……!」
熱く語るベンケイの姿をよそに、ヒカリは思う。
彼女だから、考えたのだ。彼女とならどのような困難があっても乗り越えられるだろうし、何があっても任せられる。
人を助ける為に世界を歩き回りたいというなら、そうすれば良い。自分はこれまで通りク国で彼女の帰りを待つだけ──そう、彼女の帰る場所がここであればいいと思ったから、声をかけた。
「時に、ヒカリ様」
「なんだ」
「物事には順序というものがあります。いきなり妻になってくれというより、どうして妻に願うのか思いを伝えられては?」
「……なるほど。一理ある」
キャスティも『それだけでは受けられない』と言っただけだ。話を聞けば、考えを変えてくれるかもしれない。
「それと、これは忠告ですが」
早速彼女に伝えようと立ち上がったヒカリに、ベンケイはニヤリと口角を上げた。
「焦りは禁物、相手の気持ちを考えねば、逃げられますぞ」
「そうか。気を付けよう」
嫁探しは急ぐ話ではなかったと呼び寄せられ、その上で妻にと請われた彼女のことを思う。確かに、ヒカリの行動は急なものだったろう。
「ヒカリ。キャスティ殿が帰ったぞ」
「ああ、今行く」
ライ・メイに呼ばれ、部屋を出る。
まずは彼女と話をしよう。鼓動が早くなる中、ゆっくりと歩き、ヒカリは食事の間へ移動した。
食事の時間はこの日の出来事などを語り合い、湯浴みをするため一度別れた。
それから少しした後、ヒカリは酒と盃を二人分用意し、キャスティの部屋の前まで来ていた。
「外で酒を飲まないか。月も綺麗に見える」
「素敵ね。いいわよ」
今朝のことなど気にも留めていないように、キャスティはしとやかに応じた。寝間着はク国仕様の白地の浴衣で、こちらもよく似合っていた。
縁側に出て、互いに注ぎ合う。乾杯を唱えて、くい、と揃って酒を呷った。
「……美味しい!」
「にごり酒だ。口当たりが柔らかく、飲みやすいだろうと思ってな」
「ええ、本当に。これなら何杯でも飲めちゃうわ」
すぐに盃を空にしたので、ヒカリも小さく笑って追加を注ぐ。
「良い夜」
じっくりと酒を味わっていたキャスティが、しみじみとそう呟いた。
「ねえ、ヒカリくん。私、思うのだけど……そんなに焦ってお嫁さんを探さなくてもいいんじゃないかしら」
「なぜだ?」
「だって、あなたは若くて、これから多くのことを経験するでしょうし、色んな人に巡り会うと思うから」
月を見ていた目が伏せられる。
その横顔は美しかった。
「きっと、素敵な人と出会えるはずよ」
「……もう出会っている可能性もある」
「そうね」
「キャスティ」
「なあに?」
呼び掛けると、素直に彼女はこちらを見た。一仕事終えた後の酒が格別だと言う彼女は、すでにほんのりと頬を染めていて可愛らしい。
「今朝の話は、焦って口走った訳ではない」
「──え?」
「そなたとこうして話ができるなら、……そなたにとってここが安らぎの場となるなら、それがいいと思っただけだ。無理を強いるつもりもない」
「……ヒカリくん」
まじまじとキャスティが見つめる。ヒカリは空になった盃に自ら酌をして、酒を一口飲んだ。
「あなた、もう酔っちゃったのね」
「いや、酔ってないぞ」
「酔ってるわよ。このお酒、思ったより度が強いのね? さあ、立って。早く部屋へ戻らないと」
「酔ってないのだが……」
盃を奪われ、背中を押される。世話焼きの彼女にこうして構われるのは初めてのことで、少し楽しい。
それに、酔ったせいにされたところで、ヒカリの思いは変わらないので気にしなかった。
「しっかり寝てね。おやすみなさい」
「キャスティ、待て」
寝台に横になるまで見守り、ヒカリが布団を被ったところで彼女は立ち上がった。その指先に指を絡めるように引き止める。
「明日は、見送らせてくれ。先に行ってくれるな」
「……分かったわ」
苦笑するので、大丈夫だろうと思った。おやすみなさい、という彼女の言葉に従い、目を瞑る。
襖の閉まる音が響いて、静かに人の気配が遠ざかっていった。



ヒカリに見送られ、ク国を発ったキャスティは、オズバルドとエレナの様子を見るため、コニングクリークを目指した。
元々彼らの様子を見る予定だったのだが、ヒカリに呼ばれたので、その前にク国へ向かったのだ。
「元気そうね」
「君もな」
オズバルドは相変わらずの無愛想な態度で、けれど角の取れた態度でキャスティを迎えた。自宅を焼失した彼は、ここでは研究室を拠点とし、日中は娘と共にクラリッサに世話になっているという。
「ごきげんよう、キャスティさん」
「エレナちゃん。ごきげんよう、最近はどう?」
「随分いいわ!」
はじめはぼんやりとしていた彼女も、すっかり年相応の反応を示すようになってきた。
記憶のすり替え──対象物の混乱とでもいうのか、一時はオズバルドの存在がハーヴェイに書き換えられていたエレナだが、キャスティの記憶喪失の知見とオズバルドの調査の成果により記憶が戻りつつあった。
治療を急げば、悲しい過去をたくさん思い出すことになるかもしれないので、それには極力配慮しつつ、まずはオズバルドとの記憶を取り戻すことを優先している。以前に会ったときはオズバルドのことを父親だと認識できていなかったが、今は顔を出すたび、おかえりなさいと呼びかけてくれるという。経過が良いことは明らかだった。
オズバルドとは積もる話もあるからと、夜、酒場で待ち合わせとした。キャスティは町の様子を見て回った後、待ち合わせよりも早く酒場へ向かった。


話したいことがあるから、ク国に来てほしい──そう言われて向かったキャスティを待ち受けていたのは、予想外の話だった。
「エイル薬師団の方ですか」
「ええ。知っているの?」
「あなたの姿は以前から何度か。ではなく、エイル薬師団のキャスティという方へ、手紙を受け取っていまして」
「まあ……そうだったのね。ありがとう」
旅をしていると手紙のやり取りというのはなかなかに難しい。数ヶ月滞在する場合は宿屋や酒場を宛先として送ってもらうこともあるが、コニングクリークへはつい昨日来たばかりで、滞在の期間もそう長くは考えていない。
「誰から……ヒカリくんだわ」
確かにキャスティの行き先を知っているとすれば、彼以外に居ない。キャスティより先に届いたということは、早馬を使ったか、鳥を使ったか、ともかくキャスティが発って直ぐに出された手紙であることは間違いなかった。
(もしかして、何か怪我でも──)
ク国はまだ復興の途中で隣国との親交もこれから温め直すところだ。その手伝いの過程で怪我をすることはあるはず……とさっと手紙を開き、二度ほど目を通したところでオズバルドがやってきた。
「待たせたな」
「ええ……」
手紙から顔を上げ、オズバルドに気づくと慌てて手紙を折り畳み、鞄の中へしまった。
会うのは、アグネアの舞台以来だ。彼の娘のこともあり、舞台で再会する前にも一度様子を見に来たことがあるので、仲間のうちでは比較的よく会っている方だ。
「これが、東を旅していて見つけた書物だ。テメノス、パルテティオ、アグネアを連れて、巨壁の地下洞を探索していたときに見つけた」
「そんなところにあったの?」
「研究に来た学者が落としたんだろう」
出会った頃とはすっかり見違え、オズバルドは身だしなみを整え、仲間とも頻繁に交流しているようだった。特にソローネのことを彼なりに気に掛けているようで、パルテティオやアグネアと連れ立っていたと語る彼の横顔は柔らかく、娘を見守る父親の姿に似ていた。
互いに食事は食べるものを頼んでいたので、皿が空になるとキャスティは酒を、オズバルドは珈琲を頼んだ。
「君の方はどうしている。ヒカリに呼ばれたと言っていたが」
「ああ、それね──……」
ここでふと彼に話してもいいのでは、という考えが過った。唯一の既婚者であり、彼自身は無自覚でも愛や恋の経験はある。
「その前に聞いてもいいかしら。あなたと奥さんってどうして結婚したの?」
「……急に何だ」
「後で話すわ。ね、教えてくれない?」
キャスティが訊ねるとオズバルドは深く溜息をついた。
「どうもなにも……リタが一緒に住もうと言うから、それなら結婚するかと返しただけだ」
「まあ。大胆ね」
「……同じ家に暮らすとなれば、すり合わせも必要だ。そしてその話をするなら、結婚を考えてもいいだろうと」
「奥さんは? なんて言ったの?」
ふうと小さなため息をついて、オズバルドはキャスティとは反対の方へ顔を背けた。
「もういいだろう」
「もしかして、照れちゃった?」
「……君に酒を飲ませるべきではなかったな」
「そんなこと言わないで。一杯だけにするから」
ようやく機嫌を直してオズバルドが珈琲を飲み始めたので、キャスティは鞄の中から手紙を取り出した。
ヒカリがしたためたのだろうその手紙は、いくつか大事なことが書かれていた。
「ヒカリくんがね、お嫁さんになってくれる人を探したらどうかって言われたそうなの。でも、彼はそこまで必要とはしていないみたいで、……最初は彼の考えに賛同してくれる人を探していたみたいだったのに、何故か急に、私を口説いてきて」
「そうか」
「そんなに急がなくてもいいと思うのよね。彼は若いのだし、これから色んな人に……それこそ他国のお姫様だって会うことになるでしょうし」
オズバルドは黙って珈琲を飲み続けた。彼が何も言わないから、キャスティは沈黙を埋めるように話してしまう。
「……彼の提案してくれた話は、とても魅力的だった。でも、きっとその条件なら他の人だって頷くはずなのよ。──たまたま私がそこにいたから、口説かれただけなの。なのに、」
手元の手紙を見て、苦笑する。
「どうしてこんな手紙が届くのかしらね」
すぐに会いたいなどという殊勝な話は書いてなかった。呼び寄せておいて大したもてなしもできなかったことと、ヒカリの発言で戸惑わせたことへの謝罪。
それから──

『帰る場所は、いくつあっても困らぬはずだ。近くを通ったなら、必ず顔を見せてくれ。楽しみにしている』

「……本当は、数カ月ク国に滞在して、カンポウについて学ぼうかと考えていた。でも急に私を口説いてきたから……居づらくなっちゃって」
「嫌だったなら、そう言えばいい。彼は聞く耳を持たぬ男ではないだろう」
「そう……そうなのよね」
両手で頬杖をつき、ため息をつく。オズバルドの言う話は最もで、キャスティもまた、ヒカリなら話を聞いてくれるだろうという自信はあった。
でも、止めてほしい、とは言えなかった。ただ、聞かされ続けると迷う気がして、逃げてしまった。
「答えは出ているのか?」
「分からないわ。だって、国をまとめる立場の人よ。好きだから一緒にいられるわけでもないでしょう」
「……話が見えん。それはヒカリに話すことだろう」
キャスティは残り少ない酒を呷った。それからオズバルドに聞いてみたかった問いを、もう一つ、口にする。
「あなたって、嫉妬したことはある?」
「……それが何かはわかる」
「なら、話が早いわね。女の嫉妬は怖いものなのよ。ヒカリくんなんて、たくさんの人を口説いちゃうから大変……」
かちゃ、とティーカップを受け皿へ戻し、オズバルドは机上に置いていた本を開いた。
「ここに蓄音機があれば、ヒカリに聞かせてやれたんだがな」
「やめて。彼には秘密にしてちょうだい」
「君はさっさとク国へ戻れ」
「うっ……! 店主さん、エールをもう一杯お願い!」
オズバルドがため息をついて嘆いたが、キャスティは気にしなかった。
『ク国に定住しなくともいい。帰る場所にしてくれたなら、それで』
『民の中にも薬師を目指す者がいるはずだ。彼らをエイル薬師団のたまごとして育てるのはどうだ』
ヒカリの話は本当に魅力的だった。彼が好意ではなく信頼からキャスティに声をかけたことも分かっている。
信頼関係だけでいえばアグネアやソローネ、オーシュットだっているのだ。キャスティは一番歳が離れているし、それに、恋や愛の経験はなくとも、ヒカリがこの先誰かを好きになったとき、自分がどう感じるかの想像はできる。
それがヒカリを好きという感情ではなく、嫉妬だということも、理解している。
だから、ヒカリが月を見ながら口説いたのは本意だと口にしたとき、はぐらかしたのだ。彼は素直に信頼を向けてくれているのに、綺麗に同じものを返せないどころか、自分の我儘だけを聞いてもらうような形の婚姻など、不健全だと思ったから。
「……明日休んだら、ヒカリくんに謝るわ」
「それがいい」
「振られたら、慰めてちょうだい。オズバルド」
返事はなく、ページを捲る音だけが返った。キャスティは二杯目の酒をゆっくりと飲みながら、どうしてこうなのかしらとため息をついたのだった。


トルーソーを止めるために、仲間達に生かされた。治療法を、調合の仕方を知っているからとマレーヤに助けられ──その先で記憶を失って。
エイル薬師団の不名誉な噂を払拭するためにも、キャスティは世界中を旅して人々を助けなくてはならない。仲間を募り、人手を増やしていけば、キャスティがそこにいなくても人を助けることができる。
エイル薬師団を始めたのは、マレーヤと出会ったからだった。彼女と出会ったときは今よりも若い頃の話であったから、誰かとどうなっていく、なんて話は考えたこともなかった。考える余裕がなかった。
記憶を失ったことで変わったことがあるとするなら、そこだろう。
今のキャスティは、誰かと結ばれることが自分の行動を制限するとは思わない。
(……私はいいのよ、私は。でも、彼は……)
ヒカリは、どうだろうか。民を思い、ク国のために剣を振るってきた彼は、これからようやく自分のために時間を使えるようになる。王としての責務もある中で、彼は──一人の人間として、どのように日々を楽しんでいくのだろう。
その意味で、きっと、家族の存在は重要になる。そう考えたとき従者ツキの親族ヨミや、友人の妹ミッカをはじめ、彼と同じ背景を持つ女性達の方が、彼を助けられるのではないかと考えてしまう。
砂漠の暑さのためか、考え過ぎのためか、目眩を覚えて立ち止まった。水を補給し、日陰で休んだあと、ク国へ続く砂道を往く。
正門の橋の前で、キャスティは立ち止まった。
覚悟を決めなくてはならなかった。同じだけ、どんな顔で会えばいいのだろうかと、迷いもあった。
顔を合わせて、なんと言えばいいのだろう。
提案を受け入れたい?
未来に嫌な思いをするかもしれないから断りたい?
言えば、ヒカリはきっと配慮してくれるだろう。そうしてほしくはないのに。
不健全な形ではなく、互いに手を取り合う形で道を歩めないか──と言えたらいいのだが、キャスティ一人にできることなど高が知れていた。
「……先延ばしにしても、意味はないものね」
結局、今のこの形を維持する方が、自分達には合っているのだ。
時折遊びに来て、彼が健やかでいる姿を見られたなら、それでいい。
足が竦むような心地で、橋を渡る。
不安の本当の理由に気付かないまま、キャスティは朱玄城を目指して城下町を進んだ。


キャスティが城を訪ねてきたと聞いて、ヒカリは急いで城へ戻った。この日はク国の東側の復興のため兵士共々出かけていて、キャスティの登城の知らせも夕方時になって届いたのだ。
「いま、帰った」
「陛下」
「変わりはないか? キャスティの話は聞いたが……」
「はっ。それ以外は至って平穏でした」
「なによりだ。それで──彼女は?」
ベンケイに訊ねる。彼は答えるより先に、あ、とヒカリの背後を見た。
「おかえりなさい、ヒカリくん」
「キャスティ」
「聞いたわ。今日は遠出をしていたのよね? 疲れたでしょう」
薬師姿の彼女は城の周辺を散歩していたのだと言った。ひとまず中で休みましょう、という言葉に従い、食事の部屋へ移る。
「あなたに話したいことがあって来たの。でも、夜も遅いから、明日にした方が良さそうね」
皿がある程度空になったところで、キャスティはク国を訪れた理由を明かした。
「まだ大丈夫だ。眠気もない」
「急ぐ話ではないから安心して。ね」
「……」
笑顔で、有無を言わさぬ圧を感じた。が、ヒカリは彼女ともう少し話がしたかった。
「なら、……寝酒に付き合ってくれ」
「あら。寝る前に飲むような人じゃなかったと思うけど」
「今日だけだ。そなたが来てくれたのに、話もせずに眠るなど、今の俺には難しい」
ヒカリが急ぎ戻ってきた理由など、単純なものだ。
会いたかったからだ。
彼女と何気ない日常の話をしたかったからだ。
これがどのような感情のものか、ベンケイに指摘されずともヒカリも理解している。手紙をしたためたのだって、居ても立ってもいられなかったからだ。
「……仕方ないわねえ」
キャスティが年下のお願いに弱いことは知っている。ヒカリが食い下がれば、本当に駄目な時を除いて、頷いてくれることも。
困ったように苦笑する彼女から目を逸らし、ヒカリは、庭へ出よう、と立ち上がった。


新月の夜だ。篝火があるので暗くはなく、星の光がチカチカと空を飾り付けている。
「じゃあ……乾杯」
酒を前に、キャスティは笑顔だった。今日も一仕事してきたのだろう。移動もあっただろうに、強い人だと思う。
「手紙を送ったのだが、届いたか?」
「ええ、この通り。……酒場に届けるなんて、考えたわね」
「そなたなら、必ず出向くだろうとな」
先日はここから他愛ない会話が続いたが、この夜はぽつり、ぽつりと石でも詰むような緩やかな会話となった。
一つ語っては沈黙し、酒を飲む。少量しかなかったため盃はすぐに空き、キャスティは空になったそれを盆に乗せると、膝の上で両手を組み、何度目かの躊躇いの後、ヒカリを見た。
「そろそろ、寝ましょうよ。身体も冷えるわ」
「話があるのだろう。聞かせてくれ」
「だめよ。こんな話は、夜更かしをしてまですることじゃないもの……」
語尾のすぼまりに合わせて視線を落とすので、どきりとする。
憂うその瞳に、彼女は何を視ているのだろう。
「キャスティ」
「……なに?」
しかし、名前を呼べばあっさりと顔を上げる。それがどうしようもなく、嬉しかった。
「やっと俺を見たな」
「──どういう意味……?」
「いや。そなたの言うことも最もだ。明日、聞かせてくれ」
先に立ち上がり、手を差し出す。キャスティはじっとその手を見つめていたが、ややあって、首を横に振った。
「……やっぱり話すわね。あなたに謝らないといけないことがあるの」
「謝る?」
「ええ。──あなたの提案はとても魅力的だったし、あなたなら素敵な旦那様になるだろうと思うのだけど、私がそれに見合わないと思って、断ったの」
何の話か言われずとも、彼女の言わんとするところは察した。ヒカリの妻にならないかという話だ。
「それに、……もし、もしもの話よ? もし私達が結婚したとしても、ヒカリくんはこの先もっと多くの人と出会うでしょう。その時になって本当に好きな人ができたら、私の存在は余計なものになっちゃうと思ったの」
旅中では穏やかで、何があっても大抵は冷静に受け流してきた彼女が、このときはやけに慌てたように言い募る。そうして言ったことを後悔したかのように視線を外すと、片腕を掴むようにして身を小さくする。
「あなたに、どう見られているのか分からないけど、私だって……嫉妬くらいするものよ。だから、そう、この話はなかったことにした方がいいと思うの」
どうしてそのように気まずそうにするのか、ヒカリには分からなかった。
ヒカリは一度断られた側ではある。それを彼女が気にして慰めてくれたのが、月を見ながら酒を飲んだときのことで。
それから手紙も一度しか送っていないし、帰る場所になったら良いとは言ったが、定住せぬ彼女なら家は複数あってもいいだろうとの思いから書いただけだ。
だが、話を総合するに、どうやらヒカリの求婚はしっかり彼女の心に届いており──妙な言い回しが気になるが、彼女自身もヒカリのことをよく思ってくれているようだ。
「……キャスティ。そなたの言いたいことは分かった」
「本当? 良かった……」
両の手を合わせてほっとしたようにキャスティは笑ったが、その手は震えていた。慰めたいと思った。その指先に手を伸ばし、軽く触れる。
「え?」
「震えていた」
多くの人を救ってきたその手は小さかった。手袋を嵌めているから体温こそ分からないが、強張っているようなので休ませたほうが良いだろうと立ち上がらせる。
「なかったことにするのは簡単だが、それで、そなたはどうするつもりだ?」
「どうって……前みたいに、あなたに会えば、近況報告でもして、」
「そなたは嫉妬するほど想ってくれているそうだが」
「ち、違うの。好きとかじゃないの」
「そうなのか?」
「ええっと……」
まだ恋愛の知識は浅いヒカリだが、キャスティから嫌われているとは思えなかった。むしろ、好かれている。おそらく彼女は好意を持て余していて、ゆえに、なかったことにしたいと言っているのだろうが、一度彼女を妻にと願ったヒカリからしてみれば、それは無理な話だった。
彼女以外を妻に娶る未来など、描けそうになかったからだ。
「好きだからって、一緒にいられるわけじゃないでしょう?」
「……そなたの思想は理解している。ク国に縛り付けるつもりはない」
「そ、そうじゃないわ。よく考えて、ヒカリくん。あなたは王様なのよ、もっと他に、……その、相応しい人がいるでしょう?」
「いない。そなた以外には思い浮かばなかった」
「う……」
キャスティが後ずさるので思わずその背中に腕を回していた。戦闘で負傷した際など、身体に触れることは多々あったわけだが、このときヒカリが感じたのはもっと触れていたい、という欲求だ。
加えて、らしくないほど困惑した彼女の顔──篝火が仄かに照らすその表情が、あまりにも可愛らしかった。
背中を支え、腕を掴む。キャスティが大げさなほど肩を竦めて、ゆっくりとヒカリを見つめた。
視線を注ぎ続けると、だめよ、と呟くように言い、逃げるように目を瞑る。
これは、良いのだろうと思った。愛おしむように頬に触れると、弾かれたように目を見開き、何かを言わんと口を開け──抱き着かれていた。
「だめって言ったのに」
「それは、今もか?」
「──それってわざとなの?」
曖昧な問答をどう対応したものか迷ったが、キャスティがヒカリの首に腕を回し、後頭部を引き寄せたので流れに身を任せた。


翌朝、目を覚ますと隣にはキャスティが寝ていた。離れがたいと言うので部屋へ呼び、口吸いだけ交わして寝たのだ。
外は明るく、日は既に昇っているようだ。そろそろ起きて朝の稽古に出かけるところだが、気付けばそのまま肩肘をついて彼女の寝姿に見入ってしまっていた。
キャスティが寝返りを打ち、ヒカリの胸元に頭を寄せる。
擦り寄るようなその仕草が愛おしく、彼女の細い金髪に指を通して光に透かす。
身動ぎ、その目が開く。
「……ヒカリくん?」
「おはよう。目が覚めたか」
「ええ、お陰様で……なんだか嬉しそうね。よく眠れた? 私は緊張してあまり寝付けなかったわ」
「そうか。それは悪いことをした」
欠伸を片手で隠しながら、キャスティはあっさりと身を起こす。ク国の夜着に身を包んだ、白い背中を見つめてヒカリも起き上がった。
「支度をするか」
「そうね。でも、その前に」
「なんだ?」
「あら、あなたの国じゃ、しないのかしら」
笑いながらキャスティは両手でヒカリの顔を包み込む。何度もしていれば流石に覚えるというもの、慣れたように目を瞑れば柔らかな感触が唇に触れた。
「おはようのキスよ。今日も良い一日にしましょうね、ヒカリくん」
「……そうだな」
夜明けを望んだ夜のことを思い出す。──彼女は朝を連れてくる人だった、と。
「良い一日になる。そなたのお陰でな」
話し合うべきことは多くあり、この先に様々困難もある。
けれど、それでも、彼女となら夜明けを臨むことができるだろうと、温もりを抱きしめながらヒカリはようやく実感した。
なるほど、妻というのは、確かに王には必要な存在かもしれない。


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