
暁闇の向こうに
剣士+薬師at ク国
剣士5章直後、薬師4章前
背中に朝日の気配を浴びながら、崩れかけた階段を一歩一歩上っていくと、高台のてっぺんにたどり着いた。ヒカリは朝の澄んだ空気を肺に取り込む。
そこに一軒の家があった。反った屋根の上で、赤い瓦が低い陽光に照らされている。建物のつくりは城下町にある他の家とほとんど変わらないが、煙出しの小さな窓が高い位置についており、屋根が二重になっているのが特徴だ。
最後に見た時とほとんど変わらぬ様子に、ヒカリは驚く。かつて自国の将軍に火を放たれた城下町には崩れかけた家も多いのに。高台は無事だったのだろうか? しかし、元領主の家など、ムゲンが真っ先に壊してもおかしくなかった。
ヒカリはそっと息を吐いて、戸口を開ける。
「……ただいま、戻った」
声は虚しく土壁に吸い込まれた。家の中に入るとまず石の敷き詰められた土間があり、奥に炊事場がある。一段高い木の床には囲炉裏が切られていた。ごく狭い家だ。
薄暗い室内で目を凝らす。きれいに整頓されており、調度品が壊されたり盗まれたりした形跡はない。炉の火は消えているが、家は確かに手入れされていた。
まさかツキが――と考えたが、それはあり得なかった。ヒカリはかぶりを振る。だが、彼女の縁者が家の面倒を見ていたのかもしれない。あとで確かめなければ。
彼は靴を脱がず、土間に足を置いたまま木の床に腰掛ける。ぎしりと板が鳴った。
――かつて謀反人としてク国を追われたヒカリは、故郷を奪還すべく多くの友とともに帰ってきた。そしてつい数刻前、城主ムゲンを討ち果たしたのだ。
カザンの策で城下の正門をかいくぐったのは昼間だったが、ムゲンを倒す頃には夜が明けていた。ヒカリの軍は砂丘の向こうに昇る朝日を見ながら、勝利を祝うささやかな宴を開いた。その盛り上がりがピークを過ぎた頃、彼一人でこっそり抜けてきたのだった。
ライ・メイあたりに見つかったら「大将がいなくてどうする」と怒られそうだ。だが、あの場にヒカリがいてはいつまでも皆が休めないだろう。今ごろ彼らは泥のような眠りについているはずだ。
一方ヒカリ自身はしばらく眠れそうになかった。興奮しているというより、小さな炎が胸に燃え続けているかのようだった。
領主の家に満ちた薄闇の中でまぶたを閉じれば、行き違った友や、切り捨てた敵の姿が次々と浮かんだ。呪われた血の因縁を自ら断ったことを受け入れるには、もうしばらくかかりそうだった。
「……ん?」
その時、彼の敏感な聴覚が音を拾った。玄関の向こうで足音がする。にわかに緊張が走った。このタイミングでヒカリを襲う者が今のク国にいるだろうか? 彼は息を呑んで立ち上がり、腰元の剣に手をやる。
外側から戸が叩かれた。少なくとも不意打ち狙いではないようだ。ヒカリが返事をするよりも前に、戸が開く。
立っていたのは細い影――女性だった。逆光で顔がよく見えない。
一瞬だけ、ツキが戻ってきたのかと思った。名前が喉まで出かかる。
「ヒカリ君」
凛とした声に呼びかけられ、相手の正体を悟る。彼は剣の柄から手を離した。
「キャスティか。どうした?」
仲間の薬師は、薄汚れた顔に安堵の笑みを浮かべた。
キャスティはムゲンとの決戦に参加した三人の仲間のうちの一人だ。その時の彼女は神官のライセンスを使っていたが、いつの間にか薬師の服に着替えたようだ。戦闘中に乱れていた髪の毛はきちんとまとめ直されている。
室内の暗さに慣れるためか、彼女は何度か瞬きして、あたりを見回す。
「ごめんなさいね、急にお邪魔して。あなたが一人になりたいのは分かっていたけど……ベンケイさんに聞いたらきっとここだろうって言われて」
「それは構わぬが……」ヒカリが答える間に彼女は木の床に腰掛けて、ぽんぽんと手で床を叩く。隣に座れということか。おとなしく従うと、彼女は薬鞄を開いた。
「あなた、怪我していたでしょう。ちゃんと診ておこうと思って。寝る前に処置しておかないと、治りが悪くなるから」
実に彼女らしい配慮だった。ムゲンとの戦闘中は彼女の応急処置を受けたし、その後テメノスにも魔法をかけてもらったが、激しい戦いだったためヒカリの負った傷は深かった。神官にも「かかりつけの薬師に診せた方がいいですよ」と勧められていたのだ。
「そうか、助かる」
ヒカリは表情を和らげ、左腕の袖をまくり上げる。戦闘のさなかの処置だったので、巻かれた包帯が少し緩んでいた。
窓から差し込む光だけでは暗かったのだろう、キャスティは持っていたランタンに火をつけて、囲炉裏のそばに置いた。それからヒカリの包帯を手早く解いて、怪我の痕を見る。
「うん、テメノスがきれいに治してくれたみたいね。でも……ちょっと触るわよ」
軽く肌を押さえ、ヒカリに痛みがあるかどうかを尋ねる。肘の少し上を押された時に申告すると、キャスティはてきぱきと調合素材とすり鉢を取り出した。
少し前まで斧という大きな武器を振り回していたとは思えない、繊細な手つきで薬草を練り合わせていく。ヒカリが黙ってその手元を観察していたら、キャスティが口を開いた。
「もしかしてこの家、あなたが城下町の領主だった時に住んでいたの?」
「そうだ。覚えていてくれたか」
「もちろんよ。民に寄り添う王子様の、素敵なお話だったから」
手を止めないままキャスティはにこりとほほえむ。
ヒカリがその話をしたのは、彼女と出会ったばかりの頃だったか。当時は二人旅だった。記憶喪失だというキャスティはク国の風土や慣習に興味津々で、いろいろなことを質問された。その折に、ヒカリは城下町での生活を語り聞かせたのだ。
彼女はきょろきょろと室内を見る。
「思ったよりこぢんまりしてるのね。あなたはどこで寝ていたの?」
「そこの囲炉裏の奥だ」
「庶民的な領主様ね」
キャスティがくすりと笑うが、ヒカリは肩身が狭い気分でぼそぼそと反論する。
「いや、身の回りの世話はずっとツキという者に任せていたな……」
「従者の方だったかしら。確か楽器も弾いていたのよね」
「琵琶の奏者だ。この家でも披露してくれたものだ」
ヒカリは目を細めて囲炉裏を眺める。かつて彼はあの炉端に座り、ツキの奏でる心の灯火という曲を聴いた。旅をはじめてからヨミという者の演奏も耳にしたが、やはりツキの音色が恋しかった。
キャスティは調合を終えた薬を指につけ、「ちょっと冷たいからね」と前置きしてヒカリの腕をとった。患部に塗っていく。つんと鼻に来るにおいを嗅ぎながら、ヒカリはツキの最期を思い出した。燃え盛る城下町での別れ際、彼女はヒカリの手を握って微笑した――
気づけば腕に新しい包帯が巻かれていた。清潔感のあるにおいが漂う。運動に支障がなく、どれだけ動いても決してずれない、キャスティの得意な巻き方だ。
彼女は黙りがちなヒカリの顔を覗き込む。
「だいぶお疲れのようね」
そう言う彼女の目の下にも隈ができていたが、指摘しないでおく。
「……そうかもしれぬ」
ヒカリは素直にそう答えた。宴を抜け出して城下町にやってきたのも、一人になりたかったからだった。
もう彼はただの剣士ヒカリではいられない。これからは徹頭徹尾、王として生きる道が待っている。自分で選んで掴み取った人生なので悔いはないが、少しだけ尻込みしている部分はあった。
友がいれば必ず乗り越えられると分かっていても、まだ見ぬ山の高さを考えてまぶたを閉じたい時もある。
ゆっくりと息を吐いて目をつむる――と、いきなり体に何かがぶつかった。
上半身があたたかいものに包まれる。驚いてまぶたを持ち上げれば、正面からキャスティに抱きつかれていた。
「お疲れ様、ヒカリ君」
顔のすぐ横で声がして、彼女の手がそっと背中に回される。
何故か、脳裏にツキや母の姿がぼんやりと浮かんだ。母はともかくツキにそうされた記憶はないのに、不思議なものだ。布越しに伝わる他人の体温は、遠い記憶を呼び起こした。
ヒカリはキャスティの穏やかな心音を聞きながら、彼女の背に軽く手を添える。その体勢のままキャスティがささやいた。
「あなたはあなたにしかできない方法でたくさんの人を救ったわ。ヒカリ君の手は……とてもあたたかいわね」
ヒカリははっとした。別れ際、ツキも同じことを言っていた。そのあたたかい手で国を救ってくれと。
今の彼は大願を成し遂げ、死者との約束を果たしたのだ――他ならぬ「救いの手」に保証されたことで、素直にそう認められた。
もしかすると、キャスティはヒカリをねぎらうためにここに来たのかもしれない。
しばらく同じ姿勢でいたら、突然キャスティがぱっと離れた。
「あ……ごめんなさいっ! あなたは怪我をしているのに……痛くなかった?」
彼女は焦ったように視線をさまよわせる。ヒカリは苦笑する。
「いや、問題ない。俺を労ってくれたのだろう。十分あたたまった」
「そ、そうね……この部屋ちょっと寒いものね」
キャスティはいそいそと靴を脱いだかと思うと、床に上がって囲炉裏に近寄った。そして壁際に積んであった薪を見つけ、炉に投げ込む。
「ええと、火は……」
彼女が持ち込んだランタンはいつの間にか芯が尽きていた。すかさずヒカリは炊事場に行って火打ち石を探し出す。手早く石を鳴らして火花を出せば、薪に火種が灯った。
「ありがとう。お茶、淹れるわね」
キャスティは自分の鞄から水筒を取り出し、戸棚で見つけたやかんに水を入れる。それを囲炉裏に吊るして湯を沸かそうというのだ。
二人は炉端に移動して、並べた座布団の上に座った。やかんの口から立ち上る湯気を眺めながら、キャスティがつぶやく。
「ヒカリ君はこれから忙しくなるわね」
「ああ。王が不在の状態を長引かせたくない。すぐに戴冠式を行うことになるだろうな」
己が王位につくことは、亡くなった父や共に戦ったベンケイたち、それに何よりもヒカリ自身が強く望んでいた。躊躇する気持ちはあれど、そこは揺らがない。あの重そうな冠をかぶることだけはどうも気が進まないが。
「私たちにも手伝えることがあったら言って。あなたの王様姿、楽しみにしてるわ」
彼女はにこやかに言い、急須の蓋を開けて茶葉を入れる。ヒカリはとっさにその横顔に声をかけた。
「キャスティ……」
ヒカリの旅はここで終わる。一方で、キャスティにはまだやるべきことが残っていた。
過日、彼女はヒールリークス村を訪れて記憶を取り戻した。どうやら彼女が追うべき男はティンバーレイン王国の戴冠式に現れるらしい。その期日は刻一刻と迫っている。
急須の蓋を閉めたキャスティは、きょとんとして顔を上げる。
「なあに?」
瞬きする彼女を見たヒカリは言葉を飲み込んだ。代わりに別の話題を持ち出す。
「……俺は、今回を皆との一生の別れにするつもりはない」
「もちろんよ。助けを呼んでくれたらいつだって駆けつけるわ」
ほほえむ彼女はきっと信じないだろう。ヒカリがク国王の立場のまま、ティンバーレイン王国に駆けつけるつもりだとは。
彼はその計画をずっと胸に秘めてきた。しかし、まだベンケイたちを説得できたわけではない。キャスティや仲間たちに告げるのは、その困難をくぐり抜けた後でもいいだろう。
ヒカリは戸棚から茶器を取り出す。やかんや急須を含めて、食器はどれも埃をかぶっていなかった。やはりこの家はいつでも使えるように整備されているらしい。
湯が沸いた。やかんから急須に、そして湯呑に移し替えられ、湯気の立つ水にほんのり色がつく。二人は囲炉裏で暖を取りながら茶をすすった。
「うまい。ヒノエウマの茶葉だな」
茶を味わったヒカリは目を見開く。キャスティはいたずらが成功したような顔で笑った。
「そうよ。このお茶はサイの街で手に入れたものだけど……いつか、ク国でも作れるようになるといいわね」
「俺がそうしよう」
「いい決意だわ」
彼女は目を細めてうなずく。
ヒカリは茶を飲み干してから、姿勢を正した。彼女に言っておきたいことがあったのだ。
「キャスティ。かつてそなたは、俺に『友とはどの範囲までか』と尋ねただろう」
「……ええ。確か、最初に会った時よね」
キャスティは湯呑を両手で包み込み、ほうと息を吐く。
彼女との出会いはリューの宿場だった。薬師の青い装束が砂の上に翻るさまを、ヒカリは今でも鮮烈に覚えている。
たまたま居合わせた彼女に対し、ヒカリは面倒な事情に巻き込まないため、国を追われた経緯をあえて打ち明けた。すると、予想とは真逆にキャスティは同行を申し出て、「これから助けを求めに行く友と、行きずりの旅人である自分は違うのか」とヒカリに尋ねた。
あの時はうまく答えられなかった。まさか国を出て早々に新たな旅仲間が見つかるとは思わなかったのだ。ゆえに考えが固まっていなかった。
キャスティの青い瞳が続きを促す。ヒカリはしっかりと目を合わせた。
「あれから考えたのだが、友の範囲に限りはない。俺はそれをどこまでも広げたいと思っている。例えば、隣国とも支配とは違う関係を築きたいのだ」
返事を聞いたキャスティは、嬉しそうにほおを持ち上げた。
「ヒカリ君ならできるわ」
まっすぐな信頼が胸に染み込む。ヒカリは静かな充実感とともに首肯した。茶をおかわりし、しばらく黙って飲む。
かつての友を訪ねる旅の過程で、彼はキャスティの他に六人の仲間と知り合い、モンテワイズの闘技場でも強力な味方を得た。自分が友の輪を広げていけると確信できたのは、きっと最初にキャスティとの出会いがあったからだ。
旅の途中で、ヒカリは薬師の理念――一人でも多く救う――に基づく彼女の行動を何度も目の当たりにした。いつの間にか、それは彼の心にも深く根付いていた。血の流れぬ世を作る、ヒカリの王としての理想と通じる部分があったからだ。
(キャスティの旅が終わったら、彼女をク国に誘ってみよう)
すでにウェルグローブの森で一度誘いをかけている。これからじっくり地盤を固めていくべきク国において、優秀な薬師に託したい仕事はいくらでもあった。さすがに、まだティンバーレインにも行っていない段階でその話を切り出す気はなかったが。
彼は空になった湯呑を床に置き、何気なく隣に視線をやろうとして――肩に重みがのしかかる。
「キャスティ……?」
彼女はまぶたを閉じて、ヒカリに寄りかかっていた。
すうすう寝息が聞こえる。キャスティも同じように激戦をくぐり抜けたのだ、きっと疲れていたのだろう。ヒカリはうっかり眠気に誘われたが、静かにかぶりを振る。
窓から入る日差しが明るくなってきた。彼は肩にキャスティの体温を感じたまま、壁の向こうの暁を透かし見る。
もう少ししたら彼女を起こして、皆のもとに戻ろう。彼女はもちろん、自分もきちんとした寝床で休息を取るべきだ。
キャスティの抱擁とあたたかいお茶のおかげか、領主の家に帰って来た当初の浮かない気持ちは晴れていた。
静かな寝息が聞こえる。日が昇りきるまでのあと少しの間だけは、ただの剣士ヒカリでいようと思った。
作者:ロティさん(夢の通い路)
最高の原作隙間補完小説をありがとうございます!!!(剣士5章で薬師とのパティチャがなかったので隙間を埋めたかった人の感謝の叫び)