10日目

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霞みがかった港町は道中の困難さが際立つものの、訪れてみれば至って普通の町だった。
集落と呼ぶには家屋が多く、霧の晴れる昼頃の風景はリプルタイドとさして変わらない。
無事町に到着したサイラスとテリオンは、入り口に宿屋を見つけるや部屋を取った。テリオンはほとんど無言でベッドに倒れ込み、サイラスが何度か声をかけたが反応はなかった。サイラスも着替えだけを済ませると、テリオンに倣いベッドに横たわる。ベッドは柔らかく疲れた身体を受け止めてくれた。
その後、水分補給と排泄以外でベッドを離れることはなく、サイラスがようやく空腹に逆らえず起き上がったのは、翌日の正午。
つまり、旅を初めて十日目となる。


目覚めると隣のベッドには誰もいなかった。日常的に音を消すことに慣れているのだから、出て行ったことに気がつかなくてもなんら不思議はなく、サイラスは手櫛で髪を整え、チュニックを頭から被った。両腕を出し、紐で前後を留め合わせ、服の内側に固定する。靴下をガーターで留め、半ズボンの膝部分を被せてさらに裾を固定する。靴には泥や砂が多く付着していたので、手巾で擦って落とし、つま先を入れた。
この町は水道を引いているらしく、各部屋に水場がある。シャワーと洗面台の一体型で、タイルの水捌けは良い。汚れた衣類を濡らし、細い縄を壁のフックに引っかけ、掛けて干す。宿屋の主人に訊ねたところ、この町に洗濯屋はなく、宿でも細縄の貸出しか行っていないと言われたのだ。代わりに、いつでも食事を頼むことができると言われた。
学者のローブを羽織り、部屋を出る。サイラスが二階から降りると、宿屋の主人とはち合わせた。
「やっとお目覚めかい?」
「よく眠れたよ。昼食を頼めるだろうか」
「ああ、いいとも。そこに座って待ってな」
ロビーには日光が差し込み、窓枠の形の影をテーブルに落としていた。窓の向こう側、宿屋の入り口では看板娘が町の者と談笑する姿が見える。少しの間、そうして窓から外を眺めていたが、奥からいい香りが漂ってくると室内へと視線を戻した。
部屋の壁には、一枚の地図が飾られている。ミスティポートの地図だ。
港を中心に扇型に家屋が立ち並び、航路もいくつか記載がある。興味深いことに、町の外については霧の森と記されている他、何もなかった。
「それにしても、よく来たものだよ。オルステラからとはね」
サイラスよりは年上と見られる壮年の主人は、両手に大皿を抱えて奥から出てきた。ベーコンエッグにトマトサラダ、トーストしたパンがいくつか、それからジャムをふんだんにかけた丸いパンが並ぶ。もう一皿にはブドウやリンゴ、野いちごなどが載っていた。
「豪華だね」
「俺の分もあるからな」
そういってサイラスの対面に彼が腰を落ち着ける。笑ってフォークとナイフを受け取った。
楽しい昼食だった。彼はサイラスの質問に嫌な顔一つせず、細やかに答えてくれた。この町には全てが揃っている。小高い丘、魚の豊富な海、山から流れてくる綺麗な川、穏やかな気質の住人。
森が近いため果実の採取がしやすく、小高い丘は半分が畑、半分が牧畜用で仕切られ、それで町民全員の食糧を賄えているという。北方からやってくる船から魚や衣類を買い付け、こちらからは新鮮な卵や家畜、パンを売る。
オルステラからは迷子の末にここに居着いた狩人や商人も居て、以前は司教もいたという。
「俺も十年前は薬師をやっていてな。他にも船から降りて残った薬師もいるもんで、町の外にわざわざ病を治しに出かける必要もないんだ」
「なるほど。それはそうだろうな……。ここに町ができた経緯は?」
「歴史か? それなら学者に聞くといい」
「学者もいるのか」
「なんでも、休暇中に調査に入って、帰り道が分からなくなったんだと」
それから武器屋や道具屋など店の場所を聞き、彼と別れた。布団を洗わねばならないらしい。
食後の紅茶を飲みながら、町全体の地図を眺める。鞄の中から手記を取り出し、インクとペンで書き写していく。


腹を休めた後、早速サイラスは町に繰り出した。
通りを見渡す。右に行けば道具屋や武器屋、左には酒場の看板が複数並ぶ。あとは民家であったり倉庫であったりと人の数に対して家の数は少ない。少し歩くだけで、町人より船乗りの方が多いことがわかる。帆船から降りてきたのだろう、バンダナに海の男らしい半袖のシャツを身に着け、腰布を巻いた彼らのほとんどが酒場の外で樽をテーブル代わりに食事や酒を楽しんでいる。
賑やかな笑い声を横目に、港へ出る。
船の外観はオルステラでも見るものだが、掲げられた旗に違和感を覚えた。
「起きたのか」
「うわっ……テリオンか。驚かさないでくれ」
頬にひやりとするものを当てられ、咄嗟に背筋を伸ばした。冷えたマグを片手に、彼はサイラスの視線の先を見やる。
「何を見ていたんだ」
「ん、ああ、あの船をね」
「見覚えでもあったのか?」
「どうだろう。うまく思い出せない。それより、それはお酒かい?」
エールは軽食より安い金で買え、腹も膨れる。彼がエールに手を伸ばすのはそのためだとサイラスも理解していたので、ほぼ断定する形で問うた。
「違うな」
「おや。意外な」
「あんたも飲むか? 疲労に効くそうだ」
「それはキミのものだろう。構わないよ、私も買いに……」
飲み差しを手渡され、語尾がすぼまる。飲んだものか迷っていると、テリオンは丘の麓を指して提案する。
「あの麓の家に学者がいるらしい。この町のことならそいつが知っていると聞いた」
「そうなのか。丁度話を聞きたいなと思っていたところだ」
前回の旅でも、金欠の際はこうして飲み物や食料を分け合ってきた。イチゴやブドウのように甘く華やかな香りのそれを、一口飲む。香りを裏切らない甘い味に、良さそうだなと思ったのもつかの間、レモンの酸味が遅れて舌の上を通り抜けた。
「……なんとも面白い味だ」
もっと飲みたいと飲むほど酸味が強く感じられる。空になったマグはテリオンに奪われた。店先に戻しに行くので、礼を述べる。
「来てみてどうだい?」
水平線を眺めながらサイラスはテリオンに感想を求めた。
一時はどうなるかと思われたが、無事辿り着けたのだ。どんなものを盗むのか、盗まないのだとしても、彼が自ら選び、辿り着いたのだと思うと感慨深い。
「他と大して変わらん」
この通りは船乗り達の泊まる宿や船大工のやぐらが並んでいた。漁師もその日得た魚や海藻類を並べて出店を開く。
「まあ、あんたとの旅は悪くなかった」
「そうか。光栄だ」
テリオンの予想外な返答に、内心驚きつつ平然と応える。なにかと彼からは小言を受け取っていただけに、率直なコメントは真っ直ぐにサイラスの心に響いた。
「私も、楽しかったよ」
あまり多くを語ると彼は黙ってしまうだろう。一言に留め、テリオンが聞いたという学者の家を探す。
「こっちだ」腕を引かれる。「酒屋をやってるらしい」
「そう」
それからサイラスは、テリオンの提案を聞く形で町を見て回った。
酒屋の学者、彫金師、船乗り達に踊子、商人。町の者もみな気さくで、ここに来るのは大変だっただろうと酒や食事を振る舞ってくれた。錫のビアマグを見た時は驚いたものだ。クリフランドでもあるまいし、鉱脈があるのかと訊ねると商船から買い付けたのだと笑われた。
穏やかで明るく、あたたかな町だ。船乗りや旅人に慣れているためか、初対面でも構わず話しかけてくるので、結局、サイラスがテリオンと二人で話ができたのは酒場を後にしてからだ。
「飲み過ぎたな……」
「そうだね」
船乗りたちの間でも飲み比べが行われており、はじめこそ見物していたサイラス達もあれよあれよという間に巻き込まれ、程よいところでリタイアしたのだった。サイラスはエールほどであれば酔いもしないが、テリオンの方はそうでもないようで、ところどころでその足が小石につまづく。肩を貸そうかと手を差し出すと、一拍の間を置いて寄り掛かってくる。重い。
(そういえば理由を聞いていないままだな)
真面目な話をする雰囲気ではなかったが、そこまで周囲を気にするような話だとも思わない。
頭痛でもするのか、痛みを堪えるようにその顔色は悪く、今聞いたところで明日にしろと言われそうだ。サイラスはそれとなく探りを入れた視線を前方へ移して、宿を目指した。
部屋に戻ったところで、部屋の扉がノックされる。出ると、宿屋の主人であった。
「二日酔いに聞く薬だ。明日の朝になったら飲むといい」
「助かるよ。代金は、」
「ああ、要らねえさ。代わりにこの酒をもらってくれねえか。俺は飲めなくてな。荷物になるかもしれんが」
「構わないよ。では、良い夜を」
「そちらさんもな」
扉の鍵を閉め、薬と酒の入った革袋をサイドテーブルに置く。靴を脱ぎ、クラバットを緩めて一息をついた。手燭がゆらめく。テリオンは向かいのベッドでうつ伏せに寝入っており、身じろぐ度に影が変化する。サイラスも水場で汗や酒場でついた食事の匂いを落とすと、床についた。
腕を伸ばして、手燭の火を消す────
「サイラス」
「……なにか?」
月明かりを頼りに声の方を向く。何の反応もなく、気のせいだろうかと起きあがろうとした時、ゆっくりと上に覆いかぶさる影があった。
「テリオン?」
「……」
彼はサイラスの肩から鎖骨にかけてを片手で押さえ、サイラスのベッドの上に片膝をついた。
意図をはかりかねて見守っていると、顔が近付く。
「……少しは何かないのか」
「何かとは?」
「騒ぐ、突き飛ばす、方法はいくらでもある」
もう一方の手がサイラスの顔の輪郭をなぞり、親指の腹が顎から唇にかけてゆっくりと辿る。
「キミが私をここへ連れてきた理由は、このためかい?」
「────……違う」
テリオンはやや粗雑にサイラスの襟首を掴んで、引き寄せる。
「はっきりさせるために連れてきた」
なにを、だろう。間近でサイラスを睨む瞳には怒りにも似た強い感情が揺れているようで、しかしサイラスにはそれが何かはわからない。ただ、この時サイラスの脳裏を過ぎったものもあった。街角で、学院の裏手で、図書館の前で、サイラスに非があると糾弾してきた女性達は皆、これと似た瞳をしていた。
テリオンが手を離した。自重を支えきれず、サイラスはベッドに倒れる。
「訊きたいことがある」
彼はサイラスのベッドに座り直し、片膝をもう一方の膝の上に載せた。両手を後ろについて、視線は真っ直ぐ壁に向けられている。
問いは主に次の三つであった。
一つ、仲間や友人、家族といった括りに収まらない関係をどう名づけるか。
一つ、相手にそれを求められた時、どうするか。
一つ、一目惚れはないと言っていたが、サイラス自身が恋愛感情を抱くことはあり得るのか。
「まるで哲学だ」
「そういうのはあんたくらいだろうな」
その声はどこか笑っていた。暗がりに座っているから、テリオンの表情はよく見えない。
「収まらない関係……といっても、何かしらの関係ではあるのだろう? それならそう名づければいいだけではないかな」
「単刀直入に言う。あんたと俺の関係を、あんたは人に何と説明する?」
「以前、旅をしたときに知り合った仲間。そう紹介するだろうね」
「なら、今はどうなんだ?」
「仲間、あるいは同行者とでも言うのでは」
彼が動いた────そう思った時には唇が塞がれていた。呼吸も乱さない、ほんの一瞬の接触であったが、驚いた。その唇の柔らかさを感じるほどには十分だったのだ。
「今は、どうなんだ」
「……変わらないのでは?」
「あんたの感性はどうなってるんだ……」
ため息をつかれるようなことを言っただろうか。テリオンが呆れたことを感じ取って、説明が必要だと理解した。
「挨拶でキスやハグをすることもあるだろう。主人に忠誠を誓う際も、手の甲にキスをする。それに親しみが高じてキスをすることもあると、書物で読んだことがある」
「他人の話なんてどうでもいい。あんたがどうかと聞いているんだ」
「そう言われてもね」
聞くべきか悩んだが、一度ここで明らかにした方がいいのだろう。
「キミが私に口付けたのは、親愛ではなく性愛によるものかい?」
「違う。……逆に聞くが、親愛だと言えば、あんたはどこまで許すんだ」
「そういう意味ではないよ。驚きはしたが嫌ではなかった。ただ、次からは聞いてほしいところだ。拒否させてもらうがね」
「次があってもいいのかよ」
それこそ、次にするつもりがあるかどうかによるのだが、指摘するとそれこそ藪蛇だ。サイラスはテリオンの呟きを独り言とみなして、二つ目の問いについて考える。
「一つ目の回答はこれでいいね。二つ目だが、どうするもなにも、関係性とは互いの承認が必要なものではないだろう。例えば、極端な話、キミが私を仲間と呼んだとして、私がキミを友と呼ばない理由にはならない」
「あんたの言い分に則れば、親密な関係にさえあれば、恋人だなんだと名乗っても問題なさそうに聞こえるぞ」
「それは私が否定すれば終わる話だ。恋人というのは見合い相手であったり、好きだと思いを伝え合ったりして成り立つものなんだろう? 私が好きと言っていない以上、その関係は偽りとなる」
「誰も彼もがあんたのように話を聞く人間なら、そうなるだろうな」
「うむ、痛いところを突くね。過去に似たことがあった。人から訊ねられる度に誤解だと説いたことがある」
学生の頃の話だが、複数の女性が誰が恋人だと名乗り、互いに言い合いを始めたことがあった。サイラスは彼女達の誰にもそのような関係を結んだ覚えはないと言い、なぜか全員から手酷く罵られたが、最終的に誤解は解けたので気にしていない。
最後の質問については、クオリークレストでオデットと話していたことを言っているのだろうとすぐに分かり、懐かしさに頬を緩める。
「キミに訊きたいのだが、一目惚れというのは実際どうなんだろう。私からすると、一目見て好ましいと感じることこそあれど、好きになることはないと思うのだが」
「知らん」
「人それぞれ、外見や性格の相性はあると聞く。どう言葉を変えても、全く話を聞いてくれない人もいるというが、私は、時と相手の気分がよければ、そればかりではないと考えている」
でなければ商人は困るだろう。無論、商人という職業だからこそ、そういった条件とは関係なく話ができるのかもしれないが。
「……話が逸れたな。私に恋愛感情があるか、という問いだが。これは私自身もよくわからない。抱いたことはないと思う」
「それは分かっている」
「おや。では、何故聞いたんだい?」
「意図して隠すのが上手い可能性もあるだろ」
酔い覚ましの会話だったのだろうか。ここに戻った時より随分とすっきりとした口調で、テリオンは脚を入れ替える。
「……この町に来た理由だったな」
そうして、おもむろに話し始める。
「期限が欲しかった。あんたのことを考えるのは、これきりにしようと」
それが恋愛感情ではないことを、テリオン自身も分かっているようだった。友人や仲間とするには付け足す言葉が多く、仕事仲間というには関わりが少ない。実際、互いに互いの旅路に同行しただけで、その過程でそれぞれの本分を発揮しただけだ。
だが、とテリオンは続ける。
他の仲間と比較して、確かに違う対応をしてしまう。旅を終えて半年、近くを通っても立ち寄りづらく、他の仲間の口から聞くと毛を逆撫でされたように微かな苛立ちがあり、かといって自分からは何の用事も作ることができず、サイラスからは何も連絡がない。それはサイラスが忙しかっただけだが、テリオン曰く、その状態がずっと続くのも癪だったという。
「オフィーリアに離すつもりが、その前にあんたと会った。だから、ほとんど成り行きだ。この町の話はクリフランドで商人から聞きかじった」
「なるほど。渡りに船だったわけだ」
明らかにされたことでサイラスは幾分気が楽になり、脚を組んだ。ベッドの木枠が軋み、静寂に響く。
「無理に名付ける必要もないのではないかな。言葉がないなら、その分、説明すればいいだろう?」
「それで納得できないから、ここまで来たんだ」
テリオンは立ち上がってサイラスの前に寄る。
「友人でいるだけなら会う必要はない。仲間であっても同じだ。気が向いた時に話せば気が済む。……だが、そうじゃない」
月の光を背に受け、サイラスを自身の影で覆う。彼は片手を持ち上げたが、こちらへ伸ばすことをしなかった。握り拳を作る。
「確かに会うための理由が欲しい。あんたにも会いたいと思われていたい。これは何なんだ?」
知る限りで言えば、それこそ恋愛感情と呼ばれるものだ。けれど、彼は違うという。
それは一体、なんなのだろう。
「……専門外だ。プリムロゼくんの方が詳しいのではないかな」
「──」
いつもの彼なら、話にならん、などといって切り上げたことだろう。ところがこの時のテリオンはそういった言葉は一切使うことなく、サイラスの額を指先で弾いて上衣を翻した。
ベッドに潜り、眠ってしまう。
しんと室内が静まり返る。
月が翳る。窓からの光が薄れ、暗闇に転じる。
知識なら、知る者が教えれば良い。経験を元にした解があるなら、それを知識として共有すれば良い。そう考えているからサイラスはテリオンの盗賊の技術を知識と捉えるし、プリムロゼの経験を学ぶことがあるものと捉えている。
サイラスの知る彼女なら、こう断言したはずだ。それは恋だと。しかしサイラスはテリオンの言葉を聞いて当てはめただけで、その感情や表されたものがどういった色を帯びたものかも掴めていない上、本人から明確な否定がある以上、サイラスからも否定せねばならない。
それに、テリオンは問うているだけだ。それが何であるのか、明らかにしたい──これこそ、彼が今回旅をした本当の目的だろう。